「朝倉宗滴」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「朝倉宗滴」の死に際とは?日本の人物

1573年(天正元年)、織田信長によって滅ぼされた朝倉氏。

負け役の印象がありますが、長きに渡って越前を治め、発展させた一族なんです。

そんな朝倉氏を支えた名将の1人が「朝倉宗滴」です。

彼は家臣でありながら、その有能ぶりから、事実上の朝倉家当主とも言われていました。

そんな朝倉宗滴の晩年や最期を紹介します。

「朝倉宗滴」とは?簡単に説明

朝倉宗滴は1477年(文明9年)、朝倉家当主・朝倉孝景の8男として生まれました。

幼名は小太郎、元服して教景、出家して宗滴となりました。

(ここでは「宗滴」で統一します) 幼少期から当主となることを期待され、彼も若い頃に当主の座を望んだこともありますが、家の安定を考え、一家臣として朝倉家を支える生き方を選びました。

足利幕府12代将軍・足利義晴の上洛戦や領内の反乱鎮圧などで活躍した他、同盟国の浅井氏との関係強化にも尽力するなど「事実上の当主」と評される働きを見せました。

「朝倉宗滴」の晩年

当主を補佐しつつ、各方面で活躍した宗滴は、朝倉家中のみならず、同盟国の浅井氏をはじめとする他家や、室町幕府などからも高く評価され、一目置かれるるようになりました。

朝倉氏の興廃は宗滴の双肩に掛かっていたと言っても過言ではありませんが、逆に言うと、朝倉氏は、宗滴に「おんぶにだっこ」状態だったとも言えます。

1548年(天文17年)に、朝倉義景が朝倉宗家当主となり、宗滴はその補佐にあたりました。

「朝倉宗滴」の死に様

1555年(天文24年)7月、宗滴は加賀一向一揆の鎮圧に総大将として出陣しました。

彼は、この戦いで3つの城を落とすという戦果をあげますが、戦の途中で病に倒れてしまいます。

病気療養のため、総大将を他の者に任せて、宗滴は本拠地の一乗谷城へ帰りました。

しかし、高齢だったためか、療養もむなしく、彼は期間後まもなく亡くなりました。

享年79。

当時としては長寿でした。

「朝倉宗滴」の死に様の信憑性

朝倉氏は、最後の当主・義景までの間、約200年に渡って越前を治め、発展させた一族です。

現代でも、その栄華の一端を「一乗谷朝倉氏遺跡」でうかがえます。

由緒ある名族で、朝倉氏に関して記した史料も多いことから、彼の死に様の信憑性は高いと思われます。

「朝倉宗滴」の小ネタ

朝倉宗滴の死後、朝倉氏は徐々に衰退していきます。

当主の義景は決して無能な当主ではありませんでしたが、宗滴の力が大きすぎたのです。

後に、信長包囲網に参加し、同盟国の浅井氏と共に信長と戦いますが、敗戦を重ねて、宗滴の死から18年後の1573年(天正元年)8月、朝倉氏の本拠・一乗谷城は落ち、義景は自刃、朝倉氏は滅びました。

宗滴は若き日の織田信長のことを高く評価していたという説があり、もし長生きしていたら(1555年に79歳なので厳しいですが)、信長と事を構えず、朝倉氏にも違った未来があったかもしれません。

まとめ

朝倉宗滴の晩年や最期について紹介しました。

朝倉宗滴の生涯を追うと、まさに「優秀」そのもので、数多くの功績を挙げています。

下剋上が当たり前だったこの時代に、一家臣として生きていく決断をし、死の間際まで家のために戦い続けました。

朝倉氏末期の栄光は、宗滴あってこそだったと言えます。

しかしながら、宗滴が優秀過ぎたため、結果的に、朝倉氏は彼の能力に依存することとなり、宗滴死後の朝倉氏の行く末を決定づけてしまいました。

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