「細川ガラシャ」は本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀の娘です。
熱心なキリスト教信者であったことは有名ですが、その熱心さが故に壮絶な最後を遂げています。
この記事では「細川ガラシャ」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。
「細川ガラシャ」とは?簡単に説明
「細川ガラシャ」こと「明智玉(あけちたま)」は、のちに織田信長を討つ事になる明智光秀の娘として1563年に生を受けます。
信長の命令により織田家家臣であった細川忠興に嫁ぐことになるのですが、父・光秀が信長を討った本能寺の変が起きた事で、「細川ガラシャ」は造反人の娘として夫・忠興によって幽閉されてしまいます。
その後、実権を握った豊臣秀吉によって「細川ガラシャ」は細川家に戻りますが、夫・忠興によって聞かされたカトリック教の教えに惹かれていき、キリスト教へと改宗します。
夫・忠興が九州へと出張すると、ガラシャの信仰心はますます強くりますが、秀吉によって「バテレン追放令」が出された事を知ると、宣教師たちが去る前に洗礼を受け「細川ガラシャ」という名前となりました。
1600年、徳川家の家臣となっていた夫・忠興が、家康に従って上杉征伐に向かい不在であった隙に、「細川ガラシャ」がいた屋敷は石田側の兵に取り囲まれてしまいます。
そして「細川ガラシャ」は壮絶な最後を遂げるのでした。
「細川ガラシャ」の死に様
上杉征伐に向った夫・忠興の不在の隙を突いて「細川ガラシャ」を人質に取ろうと考えた石田側は、屋敷を兵で取り囲みますが、「細川ガラシャ」は人質になる事を拒否。
夫・忠興は常日頃から、「主人が不在の際に何かあれば、妻を殺し、全員切腹するように」と言っていたため、自ら死を選びます。
しかし、キリスト教の教えにより自害が禁止されていたため、まずは侍女を始めとした女性を屋敷の外へ逃がし、家老であった小笠原秀清によって介錯され、その人生に幕を閉じました。
遺体は残らないように屋敷ごと燃やされたため、焼け跡を訪れた神父によって遺骨が拾われてキリシタン墓地へと葬られることとなりました。
「細川ガラシャ」の死に様の信憑性
「細川ガラシャ」は通説で夫の命令を守り、そしてキリスト教の信者として自害しなかったとされていますが、少なからず異説も存在します。
屋敷を取り囲まれた際に自ら胸を刀で刺して自害していたという説や、自分が死ぬ前に数名の子供を殺害した後に自害したという説などが存在し、いずれも当時の軍記に記述が存在します。
まとめ
熱心なキリスト教であった「細川ガラシャ」は夫の命令、そしてキリスト教の教えを守って壮絶な最後を遂げました。
夫であった忠興は「細川ガラシャ」の死をとても悲しんだとされています。
父の光秀が造反した際も、離婚はせずに幽閉という形を取っているため、その愛情は大きいものだったのではないでしょうか。