「池田輝政」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「池田輝政」の死に際とは?日本の人物

戦国武将・大名の「池田輝政」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「池田輝政」とは?簡単に説明

「池田輝政(いけだてるまさ,1565年~1613年)」とは、池田恒興の次男で、織田家重臣から豊臣秀吉・徳川家康に仕えて池田家が長期にわたって繁栄する基盤をつくった武将・大名です。

世界遺産の「姫路城」を大規模に改築した武将としても知られます。

1584年の「小牧・長久手の戦い」で父の池田恒興・兄の元助が相次いで戦死したため、戦場を離脱した輝政が池田家の家督を継ぎました。

池田輝政は豊臣秀吉に忠義を尽くした武将で、秀吉の全国統一のための多くの戦いに従軍しました。

天正18年(1590年)、北条氏康の小田原征伐や奥州地方の制圧にも参加した功績で、東三河で15万2千石に封じられ、吉田城城主にも任じられました。

輝政は秀吉に仲介されて徳川家康の次女・督姫と婚姻しました。

秀吉の死後は、石田三成と対立して家康方に接近していきました。



「池田輝政」の後半生・晩年

「池田輝政」は福島正則・加藤清正らの「武断派」に参加して、「文治派」の石田三成らと対立関係になりました。

慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では「岐阜城の戦い」で功績を上げ、播磨姫路52万石を与えられ姫路藩の初代藩主となります。

1601年から1609年にかけて、姫路城の改修作業を熱心に行います。

慶長17年(1612年)、中風をわずらった後に正三位参議に任命されますが、輝政は徳川家以外の大名で初めて参議になりました。

五男・忠継も備前岡山藩28万石、六男・忠雄も淡路6万石を与えられ、池田家は一族合わせて約100万石の大大名になったのです。



「池田輝政」の死に様

池田輝政をトップとして池田家が繁栄の基盤を着々と固めていた慶長17年(1612年)1月に、輝政は「中風(脳血管障害および手足の麻痺・半身不随・言語障害などの後遺症)」を発症します。

この時の「中風(ちゅうぶう)」は軽症で回復することができました。

8月には駿府・江戸を訪問して将軍の徳川秀忠に拝謁し、参議にも任命されています。

徳川家康も輝政の中風を心配して、自家製の「烏犀円(うさいえん)」という調合薬を送っています。

しかし、慶長18年(1613年)1月25日、池田輝政は「中風」が再発あるいは悪化して姫路城で死去しました。

「池田輝政」の死に様の信憑性

「池田輝政」の死に様が「中風(脳血管障害・脳卒中などの後遺症)」による病死であることは、「駿府記」などにも記録が残っていて信憑性は高いと言えるでしょう。

慶長17年(1612年)に「中風」を発症した際には、将軍の徳川秀忠から池田利隆(輝政の嫡男)に、病状を心配・確認するような複数の書状も送り届けられていて、輝政の「中風による死去」には信憑性があるのです。

まとめ

「池田輝政」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「池田輝政」は、現在の脳卒中後の後遺症に当たる「中風」を発症、その翌年にさらに再発・悪化して亡くなりました。

「池田輝政」の死に様について詳しく知りたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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