今川家に忠義を尽くした戦国武将「朝比奈泰朝」。
主君とともに戦国時代の情勢に翻弄された末、どのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「朝比奈泰朝」の生涯や最期について分かりやすく解説していきます。
「朝比奈泰朝(あさひな やすとも)」とは?簡単に説明
「朝比奈泰朝」とは、今川氏の家臣であり、「掛川城」の城主を務めた戦国武将です。
天文7年(1538年)に「朝比奈泰能(あさひな やすよし)」の子として生まれます。
「朝比奈泰能」の死後、「朝比奈家」の家督と「掛川城」を継ぎ、今川氏9代目当主「今川義元(いまがわ よしもと)」に仕えました。
「今川義元」の死後、今川領内では離反する家臣が続出します。
そんな中、「朝比奈泰朝」は今川氏の家督を継いだ12代目当主「今川氏真(いまがわ うじざね)」を支え続けました。
永禄11年(1568年)に「武田信玄」が同盟を破棄して駿河国(現在の静岡県中部)に侵攻します。
同年に今度は三河(現在の愛知県東部)から「徳川家康」が侵攻し、今川領の城を陥落させていきます。
こうした情勢から、「今川氏真」を見限ってさらに多くの今川家重臣たちが武田氏や徳川氏へ寝返る中、「朝比奈泰朝」は忠義を貫き続けました。
「朝比奈泰朝」は徳川軍に対して、掛川城にて籠城戦を展開しますが、5カ月の抗戦の末に掛川城からの退去と「今川氏真」の助命を引き換えに掛川城を開城します。
「朝比奈泰朝」は「今川氏真」に同行して、伊豆国(現在の静岡県)へ逃れることになりました。
「朝比奈泰朝」の最期
その後、今川氏は滅亡し、「今川氏真」は相模国(現在の神奈川県)の「北条氏」の庇護下に置かれました。
「朝比奈泰朝」の以降の消息については不明となっています。
武田と北条の同盟締結の際に、「今川氏真」は「徳川家康」を頼って「浜松城」へ向かいますが、このときに同行した記録はないようです。
一説によれば、徳川家重臣の「酒井忠次(さかい ただつぐ)」に仕えたとされています。
「朝比奈泰朝」の死に様の信憑性
今川氏の滅亡と共に朝比奈泰朝の名は歴史から消えてしまうため、どのような死に様だったのかは知る由もありません。
まとめ
「朝比奈泰朝」とは、「今川氏」に仕えた戦国武将です。
次第に衰えていく「今川氏」から多くの者が離反していくなか、「朝比奈泰朝」は忠義を尽くし続けました。
やがて「今川氏」は滅亡、「朝比奈泰朝」は主君とともに「北条氏」の庇護下に入ります。
晩年や最期については不明ですが、徳川家重臣の「酒井忠次」に仕えたとする説があります。