三国志の人気武将「馬超」の死に際とは?
この記事では馬超の晩年と死に際について解説していきます。
「馬超」とは?簡単に説明
三国志の人気武将であり、ゲームや漫画など三国志を題材としたゲームで強キャラとして認知されているのは言うまでもないでしょう。
日本で人気がある理由としては悲劇性を持ったキャラクターである事、また紆余曲折、流転の人生を歩んだ事が挙げられます。
敗北、辛酸を重ねてもなお立ち上がるさまは浪花節に通じるものがあるのも日本人の琴線に触れたのではないでしょうか。
「馬超」の晩年
西暦214年に劉備に帰順する意思を示すと劉備もまた厚遇で馬超とその手勢を迎え入れたのは有名な話と言っていいでしょう。
以降は劉備の遠征に従軍して主だった戦いに参戦しています。
219年には左将軍に任命されて四征将軍の一翼を担うと221年には驃騎将軍・涼州牧となっている事が示す通り劉備に重用されていたのは間違いありません。
しかし217年の漢中を巡って生じた定軍山の戦いに代表される様に目立った戦績は残しておらず、歴史の中に埋没していった感すら覚えます。
古参の武官であり前将軍の関羽には及ばないもの左将軍・驃騎将軍を歴任している事から、右将軍・車騎将軍の張飛よりは上の存在でした。
それほどの高位にありながらも不自然なほどに晩年は活躍もなければ、動向も残されていません。
そして馬超の最期に関しても同様であったと言えるでしょう。
「馬超」の死に様
西暦222年9月、三国時代章武2年8月に死去したと伝わっています。
47歳没。
死因は病死とされるも具体的な事については全く解っていません。
「馬超」の死に様の信憑性
死に様の信憑性については限りなく低いと言わざるを得ません。
むしろ消息不明であると言っていいほど情報は残されていないからです。
一般的に伝えられる馬超の死亡伝聞は諸葛亮が北伐した時には既に病死。
彼を偲んで墓へ赴いたというのが要約になります。
馬超の死に様について触れられたものは、この一文しかないため殆どが解らないままだと言っていいでしょう。
またこの文書の出所である『三國志演義』は歴史小説でもあり、史実の時系列が無茶苦茶な部分もあるため、前述した通り信憑性は限りなく低いと思われます。
まとめ
西暦222年9月、三国時代章武2年8月に死去したと伝えられています。
47歳没。
死因については一応病死したとの記述がありました。
晩年は歴史の表舞台からほとんどフェイドアウトしており、何時の間にか亡くなっていたという表現が適当かと思われます。
実際三国志に登場する人気武将でもこういった扱いなのは馬超だけではありません。
しかし馬超は劉備に厚遇を受け、立場的にも高位の将軍であっただけに、その晩年と死に際に疑問や不自然さを覚えずにはいられない人が多いはずです。