無能な継王と王母に陥れられた「李牧」の死に際とは?
この記事では李牧の晩年と死に際について解説していきます。
「李牧」とは?簡単に説明
東アジア地域における紀元前時代屈指の武将として名高い人物です。
人気漫画『キングダム』では敵側の人物であるため、より強大な壁として主人公の前に立ちはだかる事でご存知の方も多いのではないでしょうか。
実際に戦国策や史記は既に平安時代には読まれており、武士や日本軍での教本で彼の名前は知られており、ある意味現代以上に有名人物だったのは間違いないと思われます。
たびたび趙を救う活躍を見せ、彼がいなければ趙は史実よりも早く滅んでいた可能性が高いと言われます。
「李牧」の晩年
既に趙の行く末に明るい見通しを持っていなかったのは事実でしょう。
幽繆王の即位に加えて、武の分野、政の分野それぞれに国を支えた人物が逝去していたからです。
紀元前233年に大将軍に任官されると日の出の勢いの秦の侵攻を食い止めては押し返す活躍を見せています。
紀元前229年の侵攻でも秦は苦戦し、趙を陥落させるには李牧を排除する必要がある事を秦王は確信。
真正面からではなく調略の手札を切るのでした。
李牧にとって誤算だったのは幽繆王だけが暗愚ではなかった事でしょう。
王母・悼倡后までも賄賂により讒言に乗ってしまうのでした。
また前王に娶られる際の諌言、怨恨もあったのかもしれません。
「李牧」の死に様
紀元前229年趙の首府である邯鄲で死去。
出生年が不明なので没年時の年齢も不明になります。
死因は幽繆王の王命に背いた事での誅殺もしくは自死だとされています。
前者は『史記』によるもの、後者は『戦国策』によるものです。
戦国策を資料として史記が書かれている事から自死を選択した可能性がわずかに高いと言えるでしょう。
「李牧」の死に様の信憑性
歴史は勝者によって作られるのは古今東西の常識ですから、必要以上に幽繆王とその仲間の評価が下げられているのは間違いないでしょう。
また秦王を迎え撃ち苦戦させた事で李牧の評価を上げるとともに有能な部下を誅殺した事となれば、幽繆王の評価は後年も著しく下がります。
日本でいえば暗愚な武将も再評価等研究がされるところ。
近年でいえば戦国時代の今川義元親子がそれにあたります。
しかし幽繆王に関しては全くなく、今のところは李牧も伝承通りに讒言から誅殺されたと見て間違いないでしょう。
前漢の「劉向」が編纂した『戦国策』は後年の司馬遷の『史記』に影響を与えたのは事実です。
この戦国策に基づくのなら捕らえられたうえでの自ら自死を選んだ事になります。
自害と誅殺では大きく結末は違いますが、無能な幽繆王が讒言して李牧を死に追い込んだのは間違いないでしょう。
まとめ
紀元前229年趙の首府である邯鄲で死去。
出生年が不詳のため没年齢も不明です。
死因は史記によれば幽繆王の王命を拒んだため、捕らえられて誅殺される事になりました。
それよりも遥かに昔成立した戦国策では王命を断り身柄を拘束されたうえでの自死を選択した事になっています。
暗愚な幽繆王が李牧を殺して間もなく趙は滅亡した、この事実の記載が優先されているのは間違いないでしょう。
李牧は確かに偉大な武将でしたが、その死の顛末はどうでも良かったのかもしれません。