文字通り壮絶な爆死「林彪」の死に際とは?
この記事では林彪の晩年と死に際について解説していきます。
「林彪」とは?簡単に説明
中華人民共和国元帥第3位の序列で最年少かつ毛沢東氏の右腕として活躍した輝かしい履歴の持ち主だと言っていいでしょう。
息子の「林立果」氏も中国空軍のエリート司令の道を歩むなど中華人民共和国が建国後は親子ともに若くしてエリート街道を歩んだ人物だと言えるでしょう。
「林彪」の晩年
9・13事件は林彪事件と呼ばれるほどに近代中国史でも大きな事件に関与しています。
元々毛沢東の右腕・軍師とも言われていましたが、文化大革命を機に反目が目立ち始めます。
毛氏の嫌疑が危険水域に達していた事は自身も痛感しており『毛沢東天才論』を提唱して懐柔しようとしていたもの、1度狂った反目は直す事は叶いませんでした。
毛氏がいよいよ粛清に及ぼうとした段階で“殺られる前に殺れ”暗殺によるクーデターを企てました。
1971年9月8日に計画を実行に移すも事前に計画はバレており失敗。
広州で新政権を樹立するプランAではなく、プランBソ連への逃亡により、再起を測る事になりました。
「林彪」の死に様
1971年9月13日、政争に敗れた事を自覚すると、英国製ジャンボジェット機トライデントでモンゴル経由でソ連へ逃亡しました。
しかし途中のヘンデイー県で謎の墜落、炎上により壮絶な最期を遂げたとされます。
63歳没。
事件後にソ連のKGBにより遺体回収され、頭蓋骨の傷跡の一致により改めて死亡確認されています。
「林彪」の死に様の信憑性
毛氏は自ら撃墜指令を出していないとされるのが通説です。
ただ本人の意思とは別に部下の配慮があった可能性は否めません。
それは同時にソビエト連邦側でも同様のケースが考えられるのは間違いないところでしょう。
国家間の利害関係を考えて動いた人物がいたのかもしれんし、国家元首が指示したのかもしれませんが今となっては闇です。
撃墜後の遺体確認をソビエト側が行っており、抗日戦争時の治療で駐ソ歴のある林彪氏の頭蓋骨部分と焼死体の頭蓋骨が一致した事から死亡が確認されています。
とはいえ当然ながらこの手の話には影武者、生存説も存在しているのが事実です。
大っぴらに生存を認めた場合の中ソ関係に影響を与えるとして極秘に入国に成功したなど諸説はありますが信憑性はありません。
まとめ
1971年9月13日、中国山海関空軍基地から英国製ジェット旅客機トライデントでソ連へ亡命。
モンゴル・ソ連国境までそれほど距離のないヘンディー県イデルメグ村で墜落、爆死により死亡。
63歳没。
墜落の理由は急遽の逃亡による燃料不足、国家間の利害関係を受けて両国の当局が始末、はたまた幹部同士の機内での争いなど多岐に渡り真偽不明となっています。