「武田耕雲斎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「武田耕雲斎」の死に際とは?日本の人物

「水戸の三田」とも称される「徳川斉昭」の腹心「武田耕雲斎」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「武田耕雲斎」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「武田耕雲斎(たけだ こううんさい)」とは?簡単に説明

「武田耕雲斎」は水戸藩士であり、尊王攘夷の一派「天狗党」の首領となった人物です。

水戸藩主「徳川斉昭(とくがわ なりあき)」の下で藩政の中核を担い、「藤田東湖(ふじた とうこ)」「戸田忠太夫(とだ ちゅうだゆう)」と共に「水戸の三田」と称されています。

尊王攘夷派である「斉昭」の擁立に貢献し、参政として政務をサポートしました。

しかし、藩政改革を危険視した幕府は「斉昭」に謹慎を言い渡し、この処分に反発した「武田耕雲斎」も連帯で謹慎に処されます。

その後、「斉昭」の幕政復帰に伴い、「武田耕雲斎」も再び参与に任命されました。



「武田耕雲斎」の晩年と最期

万延元年(1860年)に「斉昭」が死没したことで、水戸藩内は攘夷派と保守派に分裂してしまいます。

「武田耕雲斎」は政務から遠ざけられながらも、事態の収拾に奔走しますが、その最中、「天狗党」を率いる藩士の「藤田小四郎(ふじた こしろう)」が筑波山にて挙兵しました。

初めは「天狗党」の活動を諫めた「武田耕雲斎」ですが、逆に「小四郎」から首領になってほしいと懇願されてしまいます。

「小四郎」の熱意に負けた「武田耕雲斎」はやむを得ずこれを受諾しました。

もともと過激な攘夷活動に否定的だった「武田耕雲斎」は、この時点ですでに死を覚悟していたと云われています。

「天狗党」は諸外国に対して及び腰の多い幕臣の中、ひとり異議を唱えていた「一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)」を水戸藩主に据えることが目的でした。

そして、藩主となった「慶喜」を通して朝廷へ「攘夷」を訴えようとしていたのです。

同年11月、「天狗党」は水戸藩から中山道を経て京都へと軍を進めますが、幕府軍から追撃を受けます。

敦賀に至ったところで、ついに包囲され、さらに幕府軍を率いていたのが「慶喜」だったことを知った「天狗党」は降伏しました。

そして、翌元治2年(1865年)3月1日、「武田耕雲斎」「小四郎」たち「天狗党」幹部らと共に斬首に処されます。

享年63歳でした。



「武田耕雲斎」の死に様の信憑性

「武田耕雲斎」たちは来迎寺境内で処刑され、首は塩漬けにされた後、水戸城下で数日の間引き回されたそうです。

「天狗党」の処罰については、党員828名のうち352名が処刑され、党員の家族たちにも罰が及びました。

「武田耕雲斎」の家族も妻、妾、2人の子供、4人の孫たちが斬首されています。

まとめ

「武田耕雲斎」「水戸の三田」とも称され、尊王攘夷を掲げる「徳川斉昭」の藩政を支えた水戸藩士です。

「斉昭」の死後、「天狗党」が挙兵すると、一派を率いていた「藤田小四郎」に懇願され、首領となりました。

800人にのぼる党員たちと京都へ向けて進軍するも、幕府軍の追撃を受けた末に降伏します。

そして、元治2年(1865年)3月1日、享年63歳で斬首となりました。

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