「渋沢栄一」の見立養子となり、幕臣の子として新政府軍と戦った「尾高平九郎」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「尾高平九郎」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「尾高平九郎(おだか へいくろう)」とは?簡単に説明
「尾高平九郎」は農業を営む尾高家の末子として生まれます。
大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもある「渋沢栄一」は従兄にあたり、後に「栄一」の見立養子として指名されました。
そのため、「渋沢平九郎」の名前が用いられることもあります。
若くして剣術を極めたとされ、百姓出身にもかかわらず川越藩の剣術師範となりました。
やがて、尊王攘夷派から一転して幕臣となった「栄一」は、将軍名代のパリ万博出席に際して、同行を命じられます。
そして、跡取りのいなかった「栄一」は「尾高平九郎」を養子として迎えたいと願い出ました。
「尾高平九郎」の晩年と最期
フランス渡航に際し、「栄一」は「尾高平九郎」を見立養子としました。
見立養子とは、幕臣などが海外へ赴く時に、万一に備えて跡継ぎを指名することです。
しかし、まもなく慶応3年(1867年)に「大政奉還」、さらに「王政復古の大号令」が発せられ、これを機に新政府軍と旧幕府軍の間で「戊辰戦争」が巻き起こることになります。
慶応4年(1868年)1月に「鳥羽・伏見の戦い」が起こると、「尾高平九郎」は従兄の「成一郎」や「慶喜」の復権を目指す有志たちと共に「彰義隊」を結成し、第二青隊伍長に任じられました。
その後、「彰義隊」から離れた「成一郎」が「振武軍」を結成すると、「尾高平九郎」もこれに参加し、右軍頭取に任命されます。
同年5月15日に「上野戦争」が起こると「彰義隊」は新政府軍により敗走し、新政府軍はそのまま「振武軍」が本営を構える飯能に進軍しました。
同月23日には「飯能戦争」が勃発、「振武軍」も新政府軍の前に敗れてしまい、「尾高平九郎」も落ち延びた先で自刃します。
享年22歳でした。
「尾高平九郎」の死に様の信憑性
生越方面へと落ち延びた「尾高平九郎」は黒山村にて、新政府軍の斥候と鉢合わせました。
この時、「尾高平九郎」は3人相手に小刀のみで戦い、右肩を斬られ、足を撃ち抜かれながらも、敵方の1人に傷を与え、もう1人の腕は切り落としています。
これに恐れをなした斥候が応援を呼びに言ってる間に、最後を悟った「尾高平九郎」は川岸の岩の上で自刃して果てたと云われています。
「脱走の勇士様」(だっそさま)
「尾高平九郎」の首は新政府軍に持ち去られましたが、胴体は黒山村の人々によって現地に埋葬されました。
その後、「脱走の勇士様」(だっそさま)として、その勇猛な最期と共に首から上の病気にご利益のある神様として崇められているようです。
まとめ
「尾高平九郎」は「渋沢栄一」の従兄であり、後に「栄一」の見立養子となった人物です。
大政奉還後は旧幕府軍「振武軍」に参加し、慶応4年(1868年)5月23日に起きた「飯能戦争」で新政府軍と戦うも敗れ、22歳の若さで自刃しました。