この記事では、「蜷川幸雄」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「蜷川幸雄」とは?
蜷川幸雄とは現代日本を代表する演出家で、世界のニナガワと呼ばれることもあります。
元々は俳優を志望していましたが、演出家に転向しています。
ダイナミックな演出が持ち味で、様々な作品を手掛けました。
シェイクスピアやチェーホフといった海外の古典から現代劇まで色々な作品の演出を行っています。
世界を驚かせた作品には「NINAGAWAマクベス」があります。
シェークスピアの「マクベス」を日本の戦国時代に置き換えた舞台です。
「蜷川幸雄」の晩年
蜷川幸雄は、晩年も演出家として様々な活動を行っていました。
埼玉県出身で、2006年にさいたま市にある彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督に就任しています。
そこで蜷川幸雄は、今までにないような新たな劇団を作ることに情熱を傾けます。
プロの役者ではなく、55歳以上の演技経験がない人を集めたのです。
それがさいたまゴールド・シアターで、1200人の応募者の中から48人が選ばれました。
さいたまゴールド・シアターは、日本国内だけではなく海外でも公演を行っています。
その活動は高く評価され、世界でも注目される劇団になりました。
ただし、晩年は体調を崩すことが多かったといいます。
2013年には狭心症の手術を受けました。
肝臓の調子も悪く、肺疾患もあったといいます。
「蜷川幸雄」の死に様
蜷川幸雄は、2016年5月12日に都内の病院で亡くなりました。
肺炎による多臓器不全が死因です。
葬儀には多くの俳優や演劇関係者が駆け付けました。
「蜷川幸雄」の死に様の信憑性
蜷川幸雄は病床でも、復帰する意欲を見せていたといいます。
入院したのは2015年12月のことで、軽い肺炎と診断されました。
1月には次の舞台も控えていましたが、入院したため延期されています。
その時は早く回復して劇場に戻ると言っていましたが、回復することはありませんでした。
蜷川幸雄は長年煙草を吸っていて、肺の状態は良くなかったといいます。
前年にもさいたまゴールド・シアターの海外公演中に倒れており、それからは酸素吸入器が手放せない状態でした。
まとめ
蜷川幸雄は晩年も様々な舞台で演出家として活躍していましたが、体調が優れないことが多くなっていきました。
そして都内の病院に入院中、肺炎による多臓器不全でなくなっています。
享年80でした。