「夢路いとし(ゆめじいとし)」とは?
夢路いとしの晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「夢路いとし」とは?簡単に説明
夢路いとしは、「いとこいさん」の愛称で親しまれているしゃべくり兄弟漫才コンビ「夢路いとし・喜味こいし」のうちの「いとし」の方で、相方の「こいし」(喜味こいし)は夢路いとしの実弟になります。
上方演芸界の歴史に残る漫才師で、本名は篠原博信。
1937年、12歳の時に上方漫才の荒川芳丸に入門し、2歳下の勲(喜味こいし)とコンビを組んで芳博・芳坊のコンビ名で漫才を始めています。
「夢路いとし」の晩年
このコンビは戦後の1948年にコンビ名を「夢路いとし・喜味こいし」に改名しています。
「いとし」「こいし」のどちらにするかはじゃんけんで決めたと言います。
実に本当の兄弟らしいエピソードです。
独特の間合いととぼけた口調で話す「いとし」の幅広い年齢層の観客を笑わせる実力と人気で、上方お笑い大賞、上方漫才大賞など主要お笑い関係の賞や芸術選奨文部大臣賞を受賞し、大阪市の無形文化財に指定されています。
生まれつき病弱で、身体を労わりながらの芸能活動でしたが、新ネタ研究には人一倍情熱を燃やし、演じた漫才の本数は2〜3万本にのぼると言われています。
「夢路いとし」の死に様
夢路いとしは2003年(平成15年)9月25日午前0時35分、自然気胸に肺炎を併発したため亡くなりました。
78歳でした。
同年の8月初旬まで舞台に立っていましたが、同年8月22日に胸の痛みを訴えて、過労と肺血腫のために神戸市内の病院に入院します。
同年9月20日に肺炎を患い、25日には親族10人以上に見守られ、入院先の病院で静かに息を引き取りました。
「夢路いとし」の死に様の信憑性
夢路いとしの死に様に関する信憑性は病院内で亡くなっていることや親族に見守られて亡くなっていることなどから高いでしょう。
死の床では「うわごとのように『マイクがどうのこうの』と話していたそうで、もう一度舞台に立つことを望んでいたのでは」と妻の幸子夫人は報道陣に対して話していたようです。
まとめ
夢路いとしの死去によって、同月29日にいとしの相方で実弟の喜味こいしは「いとし・こいし」のコンビ解散を発表します。
解散後、こいしは2011年1月に亡くなるまで誰ともコンビは組まずに一人での活動をつづけました。
いとし・こいしを師と仰ぐはな寛太・いま寛大はこいしから「自分が死んだらいとし・こいしの名を襲名してもよい」と言われていましたが、2007年にはな寛太が死去したため、襲名は幻と化しています。