「柳生宗矩」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「柳生宗矩」の死に際とは?日本の人物

柳生宗矩は江戸時代に活躍した剣豪として知られ、徳川将軍家の兵法指南役を務めました。

一回の剣士から大名にまで上り詰めた人生の晩年と最期を紹介します。

柳生宗矩とは?

柳生宗矩は、今の奈良県がある大和国に生まれます。

幼い頃より剣術家である父の宗厳から剣術の手ほどきを受けました。

父の宗厳が徳川家康の前で剣術を披露した際に、家康から200石を与えられて仕えるようになります。

会津征伐や関ヶ原の戦いで功績をあげ、第二代将軍秀忠の兵法指南役にもなっています。

その身分は、3000石の大身旗本です。

その後、秀忠の後を継いだ家光の兵法指南役にもなり、家光から多大な信頼を受け大名に取り立てられています。

柳生宗矩の晩年

柳生宗矩は家光に剣術を指南しますが、それだけではなく剣術を通して禅や政治についても説いたといわれています。

単なる兵法指南役にとどまらず、人間的な教育を行った人物でもあるのです。

そのため家光からは深く信頼され、家光が将軍に就任すると何度も加増されています。

その所領も1万2千石に達しました。

一介の剣士から大名にまで出世したのは、後にも先にも柳生宗矩ただ一人です。

幕臣としても非常に有能だったといわれており、諸大名の監査役として辣腕をふるったこともあります。

柳生宗矩の最期

柳生宗矩は晩年になると、故郷に戻ることもあったといいます。

人を招いて申楽や闘鶏を楽しむこともありました。

そして、正保3年に江戸にある屋敷で病に倒れました。

その知らせを聞き、将軍である家光はわざわざ見舞いに訪れています。

そして、柳生宗矩はその数日後に享年76で亡くなりました。

柳生宗矩の死因

柳生宗矩の死因は、病によるものであることは確かですがはっきりとは分かっていません。

ガンだったという説もあるようです。

ただし、76歳という年齢は当時としてはかなり長寿といえます。

柳生宗矩をめぐる逸話

柳生宗矩が病で倒れた時に将軍家光が見舞いに訪れていますが、何か望みがあれば申し出るように話したといいます。

宗矩が亡くなった後にも従四位下を贈位するように推挙するなど、家光は宗矩の死を惜しみました。

大変に信頼されていたことが分かります。

柳生宗矩の子・十兵衛(三厳)

柳生新陰流の剣士といえば、柳生十兵衛を思い浮かべる人も多いと思います。

十兵衛は柳生宗矩の子で、様々な小説や映画のモデルとなりました。

多分に創作が含まれていますが、隻眼の剣士として描かれることが多いです。

実際の十兵衛は家光の小姓となりますが、怒りをかって出仕停止となったこともあります。

新陰流の発展に力を尽くし、家督を継いですぐに亡くなりました。

まとめ

柳生宗矩は、徳川将軍家の兵法指南役を務めた人物です。

幕臣としても有能で、諸大名の監査役として辣腕をふるいました。

徳川家光の信頼が厚く、江戸にある屋敷で病に倒れた時には家光自ら見舞いに訪れています。

そして、76歳で亡くなりました。

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