「春日局」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「春日局」の死に際とは?日本の人物

NHK大河ドラマの主人公にも抜擢された女傑・春日局の最期とは?

その晩年から逝去までを解説。

「春日局」とは?簡単に説明

春日の局とは波瀾万丈の人生をおくったこと、徳川家三代目将軍である徳川家光の乳母としてその名を馳せています。

出自が明智光秀の重臣中の重臣であった斎藤利三で本名は斉藤福。

夫が小早川秀秋家臣の稲葉正成であることや大奥で将軍様御局を務めた際のエピソード等が豊富。

このため物語の主人公として善き人とも悪しき人としても取り上げられる人物です。



「春日局」の晩年

将軍家光は病弱であったため、1628年には脚気、翌29年には天然痘とこの時代には特効薬のない不治の病に相次いで罹患。

しかしこの危機を乗り越えたのは一重に春日局の献身的な介護があったからだと言っていいでしょう。

それができたのも幼少期に天然痘に罹患するも軽かったため彼女には免疫があったからだと言われています。

このとき家光のために上洛して御所への昇殿をするため三条西実条と猶妹の縁組をしています。

これを契機に従三位の位階と春日局の名号も下賜されました。

その三年後には女傑として歴史に名を残している北条政子や平時子と同格の従二位にまで出世しています。

その後は離縁したものの夫である正勝を亡くした後は家光の上意により、曾孫にあたる堀田正俊(1歳)を養子とし、彼の養育に全力をいれるのでした。



「春日局」の死に様

春日局は寛永20年9月14日(1643年10月26日)に逝去、享年64。

死因はわかっていません。

ただし彼女が亡くなる10日前には堀田政俊が酒井忠勝の娘、稲葉正則の妹と酒井忠能の婚約が決められていますから、この頃にはそう先が長くないような深刻な状態であったのだとも想像がされるでしょう。

また1629年に家光が天然痘に罹患した時から願掛けとして薬を一切断っており、死ぬ間際に病床に臥せった時も治療を断っています。

そこで家光が自ら薬を下賜し、服薬させたことも逸話として残されています。

「春日局」の死に様の信憑性

彼女の死因については明らかにされた文献は残っていません。

後に老中・大老として幕府の中枢に携わることになる堀田正俊もこのときまだ八歳だったのに加え、彼と江戸城において轢死してしまったため、回顧録的な文献が残されていないからだとも言えるでしょう。

まとめ

春日局は寛永20年9月26日(1643年10月26日)に64歳で逝去、死因は不明です。

墓所は1624年に彼女の隠棲所として創建された東京・文京区の麟祥院、小田原城主であった稲葉正則の開基した紹太寺、浄土宗の大本山である京都の金戒光明寺、臨済宗妙心寺派の大本山の塔頭麟祥院にあります。

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