「平岡円四郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「平岡円四郎」の死に際とは?日本の人物

江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」に仕え、後に「渋沢栄一」の人生の転機にも大きな影響を及ぼした「平岡円四郎」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「平岡円四郎」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「平岡円四郎(ひらおか えんしろう)」とは?簡単に説明

「平岡円四郎」「一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)」(後の第15代将軍)の側近として仕えた人物です。

NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもある「渋沢栄一(しぶさわ えいいち)」を一橋家臣として取り立てたことでも知られています。

幼少の頃より聡明だったとされ、若くして学問所の寄宿中頭取に就任しました。

やがて、「慶喜」が一橋家へ入った際、「平岡円四郎」は才覚を高く買われていたことから推薦を受け、一橋家の小姓として仕えることになります。

「平岡円四郎」の晩年と最期

安政5年(1858年)に将軍後継問題の折、「平岡円四郎」「慶喜」の将軍擁立のために力を尽くすも、将軍には別派閥の「徳川家茂(とくがわ いえしげ)」が就任します。

同年に起きた「安政の大獄」で、「慶喜」は謹慎処分に、一橋派であった「平岡円四郎」も翌年に甲府勝手小普請へと左遷されました。

やがて、「慶喜」が将軍後見職に就くと、「平岡円四郎」も側近として江戸に呼び戻されます。

「公武合体派」の中心である「慶喜」を支えるも、反対勢力である攘夷派からは黒幕として睨まれることになりました。

元治元年(1864年)の2月に側用人番頭、5月には一橋家家老並へと任じられ、6月初頭には近江守へと叙任されます。

ところが、同月16日に京都にて「江幡広光(えばた ひろみつ)」「林忠五郎(はやし ちゅうごろう)」たち水戸藩士たちにより暗殺されてしまいます。

享年43歳でした。

「平岡円四郎」の死に様の信憑性

当日、「平岡円四郎」は家老の宿所から帰る途上で、京都町奉行所与力長屋の外にて襲撃に遭いました。

襲撃時、「平岡円四郎」に同行し、暗殺者を返り討ちにした「川村恵十郎(かわむら えじゅうろう)」の記録によれば、1人に背後から頭を、別の1人からは腰を斬られ、即死だったと記されています。

「渋沢栄一」との関係

「渋沢栄一」「平岡円四郎」は江戸にて知り合いますが、当時、「栄一」は尊王攘夷活動に傾倒していました。

その後、尊王攘夷活動に行き詰まり、京都をさ迷っていたところを「平岡円四郎」が勧誘し、一橋家臣として取り立てたと云われています。

やがて、「栄一」「日本資本主義の父」と呼ばれるほどの偉大な功績を残すことになるのです。

まとめ

「平岡円四郎」は後の第15代将軍「一橋慶喜」の側近として仕えた人物です。

小姓の頃より「慶喜」に仕え、「公武合体運動」を支える最中、元治元年(1864年)6月16日に京都にて数名の水戸藩士たちの襲撃を受け、享年43歳で命を落としました。

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