攘夷志士となった後、旧幕府軍として戦い、やがて「富岡製糸場」の初代場長となった「尾高惇忠」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「尾高惇忠」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「尾高惇忠(おだか あつただ)」とは?簡単に説明
「尾高惇忠」とは、国宝であり重要文化財にも指定されている「富岡製糸場」の初代場長として知られる人物です。
秀才であったことから10代の頃には私塾を開いており、子弟の中にはNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、従兄弟にもあたる「渋沢栄一」がいました。
初めは「栄一」らと共に尊王攘夷活動へ傾倒していましたが、「栄一」が幕臣となったことで「戊辰戦争」では旧幕府軍として参加します。
親族たちと共に「彰義隊」を創設後、新たに「振武軍」を結成し、新政府軍と戦いますが、敗北した後に郷里へと落ち延びました。
「尾高惇忠」の晩年と最期
明治維新が成った後は、大蔵省の官僚となった「栄一」に求められ、「富岡製糸場」の初代場長へと就任します。
「富岡製糸場」には建設計画の段階から携わっていたとされ、当時はほとんど知られていなかったレンガやモルタルを建設素材として採用しました。
また、長女の「勇(ゆう)」を最初の工女(工場や作業場で働く女性のこと)として雇い、一般教養を高めるために工女の教育にも取り組んだとされています。
他にも、秋蚕の飼育法の研究にも注力し、普及にも勤めました。
場長辞職後、第一国立銀行盛岡支店や仙台支店の支配人を経て、製藍法の改良に取り組みます。
明治23年(1890年)に「藍作指要」を発表した後、明治34年(1901年)の1月2日に東京市深川区福住町にある「栄一」の別邸にて、享年72歳(満70歳)で死去しました。
「尾高惇忠」の死に様の信憑性
死因については不明で、定かではありません。
「富岡製糸場」始動にまつわるエピソード
「富岡製糸場」は建設工事着工とともに、工女の募集も行っていました。
しかし、当時、西洋人が飲んでいた赤ワインを生き血と誤解したことから、「工女になると西洋人に生き血を絞られる」という根も葉もない噂が流布します。
政府は工女の重要性などを説き、噂の払拭を図りますが、人員確保は難航していました。
この状況を打開するために「尾高惇忠」は長女の「勇」を最初の工女として雇うために郷里から呼び寄せました。
また、「勇」もそんな父の心境を汲んで最初の工女となることを決意したそうです。
まとめ
「尾高惇忠」は「渋沢栄一」の従兄弟であり、その縁で後々「富岡製糸場」の初代場長へと就任した人物です。
場長になってからは、蚕の飼育法の研究や場内の規律の整備に努めるほか、長女「勇」を最初の工女として雇い、工女の教育にも注力しました。
そして、明治34年(1901年)1月2日に「栄一」の別邸にて72歳(満70歳)の生涯に幕を下ろします。