「藤子・F・不二雄」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「藤子・F・不二雄」の死に際とは?日本の人物

藤子・F・不二雄は、日本を代表する漫画家の一人として知られています。

代表作は「ドラえもん」で、アニメ化され現在も放送が続く長寿番組となっています。

藤子・F・不二雄の晩年と最期について紹介します。

藤子・F・不二雄とは?

藤子・F・不二雄は本名を藤本弘といい、安孫子素雄とコンビを組んで藤子不二雄として活動していました。

「ドラえもん」を始めとし、「おばけのQ太郎」「パーマン」等数多くの漫画を世に送り出し人気を集めます。

その人気は日本だけにとどまらず、海外でもアニメが放送され多くの人に知られる作品となりました。



藤子・F・不二雄の晩年

藤子・F・不二雄は1987年に、安孫子素雄とのコンビを解消しました。

その後、藤子・F・不二雄プロを設立し、一人の漫画家として執筆活動を続けます。

「ドラえもん」は人気アニメとなり、長編映画の制作にも携わりました。

劇場映画「のび太の恐竜」は、累計で1億人の観客を動員した大ヒット映画となります。

これにより「ドラえもん」は、不動の人気を獲得したのです。



藤子・F・不二雄の最期

藤子・F・不二雄は、1996年に自宅の仕事部屋で倒れているところを家族に発見されました。

病院に搬送されましたが、3日後に肝不全のために亡くなっています。

享年62でした。

発見された際、藤子・F・不二雄はペンを握りしめたままだったといいます。

「ドラえもん」の下書きを描いているところでした。

安孫子素雄との関係

藤子・F・不二雄と安孫子素雄は、小学校の同級生でした。

安孫子が転入したことで知り合い、この頃から二人は漫画家を目指すようになります。

藤子・F・不二雄が安孫子を誘う形で上京しました。

合作によって人気作を生み出しますが、徐々に単独で執筆を行うことが多くなっていきます。

そして、1987年にコンビを解消することとなりました。

その大きな要因は漫画の方向性の違いにあります。

藤子・F・不二雄が子供向けの作品を得意としていたのに対して、安孫子はダークなエッセンスが入った大人向けの作品にシフトしていったからです。

安孫子はコンビ解消後、藤子不二雄Aとして活動します。

安孫子は藤子・F・不二雄のことを高く評価しており、尊敬する漫画家はだれかという質問には手塚治虫と藤子・F・不二雄の名前を挙げていました。

藤子・F・不二雄をめぐる逸話

藤子・F・不二雄が漫画家を志したのは、手塚治虫の作品に感銘を受けたためです。

コンビを組んだ安孫子素雄も同様でした。

中学生の頃にはファンレターを送ったこともあり、返事をもらえて感激します。

その手紙は宝物として大切にしており、現在は藤子・F・不二雄ミュージアムに展示されています。

まとめ

藤子・F・不二雄は、ドラえもんを始めとする名作の数々を世に送り出しました。

晩年にも執筆活動に取り組んでいましたが、自宅で倒れ帰らぬ人となります。

その際、ドラえもんの下書きを描いていたところで、ペンを握りしめていたといいます。

享年62でした。

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