「尾高長七郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「尾高長七郎」の死に際とは?日本の人物

尾高長七郎は幕末に無類の強さを誇った剣豪で、日本資本主義の父といわれた渋沢栄一の従兄弟としても知られています。

その晩年と最期について紹介します。

尾高長七郎とは?

尾高長七郎は、現在は深谷市となっている武蔵国下手計村の豪農の家に生まれます。

渋沢栄一とは従兄弟の関係にあり、子供の頃から親しくしていました。

長七郎は幼い頃から文武に優れ、特に剣術の才能に秀でていたといいます。

そして、天狗の化身と呼ばれる程の剣術家となりました。

尊王攘夷派の志士となり、老中であった安藤信正を襲撃する計画に参加します。

後に桜田門外の変と呼ばれる事件ですが、兄の尾高惇忠の助言を受け直前に襲撃計画から離脱しました。



尾高長七郎の晩年

尾高長七郎の晩年に起きた事件といえば、尾高惇忠や渋沢栄一らが計画した高崎城乗っ取り計画です。

高崎城を襲って武器を奪い、横浜にある外国人居留地を焼き討ちするという計画でした。

その先には長州藩と連携し、江戸幕府を倒そうという気持ちがあったのです。

しかし、この事件は未遂に終わります。

惇忠に促されて故郷に戻ってきた長七郎が反対したからです。

尊王攘夷運動は以前から行われていましたが、上手く行った例はありません。

八月十八日の政変を目の当たりにしていた長七郎は、栄一達の計画は必ず失敗すると予想したのです。

お互いの議論が白熱しましたが、結局は栄一達が長七郎の主張を受け入れて計画を中止しました。

後年、渋沢栄一はこの時の出来事を長七郎によって命を救われたと語っています。



尾高長七郎の最期

高崎城乗っ取り計画は中止になりましたが、それが明るみになれば幕府に捕らえられてしまうかもしれません。

そこで渋沢栄一はお伊勢参りを名目に京都へ旅立ちます。

長七郎は村に留まり、折を見て上京することにしていました。

ところが、文久4年に長七郎は投獄されてしまいます。

情報収集のために江戸を訪れることもあったのですが、郷里に引き返す道すがら通行人を斬って殺したというのです。

なぜそのような行動をとったのかは明らかになっていません。

桜田門外の変の計画に加わったことで幕府から追手を差し向けられたと勘違いしたとか、幻覚を見て突発的に斬ったともいわれています。

尾高惇忠や渋沢栄一は何とか救い出そうとしますが、投獄は免れませんでした。

そして慶応4年、惇忠が身元引受人となって出獄することになります。

その時には昔の面影は全くなく、故郷に戻った半年後に病によって亡くなりました。

享年33です。

尾高長七郎の死因

尾高長七郎は病で亡くなっていますが、獄中生活が影響したことは間違いないでしょう。

長七郎が入れられたのは伝馬町牢屋敷で、衛生状態は劣悪でした。

窓がないので日光も入ってこなかったといいます。

まとめ

尾高長七郎は尊王攘夷派の志士で、剣豪として名高い人物でした。

しかし、通行人を斬りつけて殺害するという事件を起こし、投獄されてしまいます。

出獄した半年後に病気で亡くなりました。

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