病弱将軍?イモ公方「徳川家定」の晩年とは?
この記事では徳川家定の死に際、そして晩年について解説していきます。
「徳川家定」とは?簡単に説明
12代将軍徳川家慶の四男であり、第13代将軍であるのが徳川家定です。
26人いた兄弟で成人できたのは家定1人だけ、1歳未満で亡くなったのが半数以上。
父親の家慶も甥の一橋慶喜に跡継ぎを任せたいと思っていたそうです。
成人はできたものの脳性麻痺、天然痘の後遺症で痣が顔面に残り、それもあり人前に出ることを好まなかったとも言われています。
近年では篤姫が大河ドラマの主人公として取り上げられたため、認知度が上がってきた将軍だと言えるでしょう。
「徳川家定」の晩年
家慶が病死したことで将軍になった家定ですが、大変な時期に将軍に就任します。
黒船来航ばかりが取り上げられますが、実はこの1853年にはロシアのエフィム・プチャーチンが率いる艦隊も長崎を訪れていました。
父・家定がペリーから白旗を贈られ卒倒して、そのまま亡くなった説も近年ではありますが、元々身体の弱かった家定は同じようにストレスもあったのか、廃人状態になってしまうのでした。
これにより老中・阿部正弘が国政を担当、朝廷はもとより外様、普代関係く大名、市井から意見を募っていくも時間が過ぎていくばかりで将軍の実質不在が問題化します。
国難の中強力なリーダーシップの取れる将軍を擁立しようと将軍継嗣問題が勃発し、一橋派と南紀派に別れ激しい論争が始まります。
1856年11月天璋院篤姫が輿入れはしたものの依然子供はできないまま歳月は過ぎていきました。
1858年に入ると家定は床に臥せて重体になってしまいますが、同年8月4日に将軍継嗣を紀州藩主の徳川慶福にすると諸大名に伝え、13日には一橋派諸大名の処分を発表して懸案の後継者問題に終止符をうっています。
「徳川家定」の死に様
1858年に入り体調を崩した家定ですが、廃人に近い状態ではあったものの意思決定能力はあったと言われ、自分の後継者を自ら選んで果てたとも言われます。
後継者を決めた後、一橋派の処断を発表した翌日に35歳でその生涯を終えました。
「徳川家定」の死に様の信憑性
家定は表舞台にほとんど出てこなかったゆえに死因も多岐に渡ってあげられます。
1858年に二度目の大流行を起こした「コレラ」3代将軍「徳川家光」そして後継者の「徳川家茂」の死因となった江戸煩いの「脚気」が通説では濃厚ですがはっきりしていません。
当時広く流布されたのは一橋派処断後の翌日に亡くなったため「毒殺」でしたが、既に重体だったことを考えれば危険を侵してまで毒殺を狙うかは疑問なところでしょう。
まとめ
家定は当時の江戸に蔓延していた「脚気」もしくは当年大流行したコレラで亡くなった説が濃厚です。
一橋派の暗殺説はもとより不憫なことに敵対勢力の処断が決まった南紀派からも用済みと見なされ、毒殺されていても不思議ではないように思えます。