「丹羽長秀」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「丹羽長秀」の死に際とは?日本の人物

「丹羽長秀」は織田信長に最も信頼されていた重臣であったと言われています。

生涯を主である信長の天下統一に捧げ、豊臣秀吉や柴田勝家などと共に織田家を支えました。

その死に様は、とてもショッキングで印象的です。

そんな「丹羽長秀」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。

「丹羽長秀」とは?簡単に説明

「丹羽長秀」は、信長の一歳年下でしたが、15歳の時から信長に仕え19歳の時に初陣を迎えるなど若い時期から信長を支えます。

長秀は一般的にあまり有名な武将ではありませんが、実は信長から最も信頼されていた家臣と言われており「長秀は友、そして兄弟である」と信長に言わしめた逸話さえ存在します。

数々の戦場に参戦したり、自ら政治を行ったり、まさに文武両道と言ってもいい活躍でした。

そして1573年に信長の家臣の中で初めて若狭国を与えられますが、本能寺の変で信長が暗殺されてしまいます。

信長の仇を豊臣秀吉が取りますが、信長の最重臣だった長秀の存在は、秀吉と長秀の両者の関係を微妙なものにしていきます。

織田家の中では長秀の方が上の立場でしたが、実際の実力は秀吉の方が優れていたからです。

その後、信長の家臣であった豊臣秀吉と柴田勝家の両者が衝突するなど、長秀は秀吉に翻弄され心労が絶えませんでした。

長秀は1585年4月16日に寄生虫病で亡くなったとされています。



「丹羽長秀」の死に様

「丹羽長秀」は、1585年の4月16日に寄生虫病で亡くなったとされていますが、亡くなる前から胸部及び腹の激痛に悩まされていたとされています。

その腹には、しこりのような物が外から手で触って分かる程飛び出していたそうです。

そして長秀は驚くべき行動を起こします。

あまりの激痛に我慢できなくなった長秀は、自らの刀で腹に出来たしこりをえぐり出したそうです。

その傷が致命傷となり、2日後に亡くなってしまいました。



「丹羽長秀」の死に様の信憑性

「丹羽長秀」の死後、えぐり出したしこりは秀吉に送られたという逸話が存在します。

それを見た秀吉は「まるで石亀のようだった」と述べており、そのしこりの大きさが伺えます。

ただこの逸話の信ぴょう性については不明確な部分が多く、胃がんなどの病気で腫瘍が大きくなっていたという説も考えられますが、本当にしこりが秀吉に送られたのかどうかは定かではありません。

他の書物などによれば、石亀のようなものはサナダムシやカイチュウなどの寄生虫だったのではないかと考えられています。

まとめ

信長の忠実な重臣であった「丹羽長秀」は、信長の死後、天下統一を一点に目指す豊臣秀吉に翻弄されます。

そんな秀吉を恨むかのように、自らの腹からしこりをえぐり取り、秀吉に送り付けたのでしょうか。

ある意味、逸話や伝説の類の話ですが、この話がもし事実であるならば、長秀の心労は計り知れないものだったのでしょう。

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