「藤田東湖」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「藤田東湖」の死に際とは?日本の人物

尊王攘夷思想の礎を築き、幕末志士に大きな影響を与えた「藤田東湖」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「藤田東湖」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「藤田東湖(ふじた とうこ)」とは?簡単に説明

「藤田東湖」は水戸藩士であり、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」の実父でもある常陸水戸藩9代目藩主「徳川斉昭(とくがわ なりあき)」に仕えた人物です。

「戸田忠太夫(とだ ちゅうだゆう)」と並んで水戸藩の主柱を担い「水戸の両田」、もしくは「水戸の三田」と称されています。

水戸学者である父「幽谷(ゆうこく)」の子として生まれ、「斉昭」の下で藩政改革を推し進めました。

ちなみに、「藤田東湖」の四男「小四郎(こしろう)」は後に「天狗党」の首領として、尊王攘夷派の同志を率いて「天狗党の乱」を引き起こします。



「藤田東湖」の晩年と最期

弘化元年(1844年)に「斉昭」が謹慎処分となったことに伴い、「藤田東湖」も失脚し、小石川藩邸に幽閉されてしまいました。

それから、弘化4年(1847年)までの間に、幽閉・蟄居の処遇のまま何度か屋敷を移されており、小梅藩邸に移ったころに多くの著作を執筆しています。

「弘道館記述義」「常陸帯」を始めとする自著の内容は、幕末志士に大きな影響を及ぼすことになりました。

嘉永5年(1852年)には処分を解かれ、翌年に「ペリー」が来航すると、「斉昭」が海防参与に任命されます。

それに伴い、「藤田東湖」「斉昭」の補佐役に就き、安政元年(1854年)には側用人として復帰を果たしました。

しかし、翌安政2年(1855年)10月2日に発生した「安政の大地震」で被災した際に、享年50歳で 命を落とします。



「藤田東湖」の死に様の信憑性

その日、「藤田東湖」は藩政の相談のために、家老宅を訪れていましたが、途中で帰宅しました。

そこで「安政の大地震」が発生し、一旦は家からの脱出に成功するも、火鉢の火を案じた母親が家へ戻ってしまいます。

後を追った「藤田東湖」は落下してきた梁を肩で受け止め、周囲の助けを借りて母親を救出しますが、母親の無事が分かった直後に力果て、下敷きとなり圧死したと云われています。

「西郷隆盛」との関係

維新の三傑の1人である「西郷隆盛」「藤田東湖」から多大な影響を受けており、「家を訪ねて話したときは、まるで清水を浴びたように心の曇りがなくなり、帰り道を忘れてしまうほどだった」と言っています。

まとめ

「藤田東湖」は藩主「徳川斉昭」の補佐役として、藩政改革などをサポートした水戸藩士です。

父より受け継いだ「水戸学」を軸に説いた思想は、幕末藩士たちに大きな影響を与え、「尊王攘夷」の基盤を形づくりました。

一旦は失脚し、幽閉に処されるも、「ペリー」来航後の「斉昭」の幕政復帰と共に「藤田東湖」も補佐役として復帰します。

しかし、安政2年(1855年)10月2日に「安政の大地震」で被災し、母親の救出と引き換えに下敷きとなって死亡します。

享年50歳でした。

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