宮沢賢治は、詩人・童話作家として知られています。
しかし、生前に作品が評価されることはありませんでした。
宮沢賢治の晩年や最期を紹介します。
宮沢賢治とは?
宮沢賢治は1896年、岩手県の商家に誕生しました。
中学校に入学した頃から短歌を詠むようになります。
その後、盛岡高等農林学校に進学すると、学内の同人誌に短歌や詩を次々と発表しました。
卒業後には上京して童話など創作活動に励みますが、妹の病気の報せによって帰郷し農学校の教師となります。
地元の新聞に童話や詩を発表するようになり、詩集の「春と修羅」と童話集の「注文の多い料理店」は自費で刊行しましたがほとんど売れませんでした。
生前に刊行された数少ない作品です。
宮沢賢治の晩年
宮沢賢治は、4年ほど勤めた農学校を退職しました。
実家を出て別宅を改装して暮らし、野菜を栽培して売るようになります。
農学校の生徒たちを集めて、羅須地人協会という私塾を設立しました。
農業についてや肥料に関する講習会などを行います。
レコードの観賞会を開催したり、楽団を作って練習したりもしています。
しかし、保守的な農民たちには受け入れられず、警察の聴取を受けるなど活動は下火になります。
そのうち結核を発病して、実家で療養生活を送ることになりました。
体調が回復すると、砕石工場の技師として働きました。
宮沢賢治の最期
砕石工場の仕事で上京していた折、宮沢賢治は再び病に倒れてしまいます。
岩手に戻って療養生活を送りますが、闘病中に「雨ニモマケズ」という有名な詩を愛用していた手帳に書き残していました。
この手帳が発見されたのは、宮沢賢治が亡くなった後のことです。
病床において宮沢賢治は、過去に書いた作品の推敲を行っていたといいます。
死を覚悟していたのか、医者にかかることもなくなりました。
療養中、神社のお祭りがあり、宮沢賢治も神輿や山車の見物をします。
翌日、体調が悪化し急性肺炎と診断されました。
肺炎はウイルスや細菌に感染することで発症しますが、長く続いた療養生活で免疫力が落ちていたためか悪化してしまいました。
そして、家族に看取られながら37歳で亡くなっています。
その際、弟の清六にいままで書いた原稿を託しました。
宮沢賢治の死後
作家としての宮沢賢治は、生前は全く無名といってもいい存在でした。
死後に注目されたのは、詩人であった草野心平の尽力によるものです。
詩集「春と修羅」を読んで大きな感銘を受けた草野は、訃報を知って宮沢賢治の作品を刊行することに力を尽くします。
弟の清六も兄に代わって家業を継いでおり、兄から託された原稿を出版するために奔走しました。
宮沢賢治の遺稿は、1981年に花巻市に寄贈されています。
まとめ
宮沢賢治は晩年、結核を患い療養生活を送ります。
闘病中に「雨ニモマケズ」という詩を手帳に書き残しました。
そして、37歳の時に急性肺炎によって亡くなっています。
詩人の草野心平や弟の清六の尽力によって、宮沢賢治の作品は刊行され高く評価されるようになりました。