日本が誇った世界的冒険家のたどり着いた先とは?
「植村直己」の死に際とは?
この記事では植村直己の晩年と死に際について解説していきます。
「植村直己」とは?簡単に説明
登山道具の進化により“無酸素単独登頂”や“七大陸最高峰制覇”など輝かしい称号を手に入れる冒険家が現れたとしても彼を上回る記憶を残せる冒険家は出てこないかもしれません。
日本で冒険家を志す人の最高到達点とも言えるのが「植村直己」氏です。
1970年に日本人初のエベレスト登頂、世界初の五大陸最高峰登頂者を成し遂げました。
また植村氏の映画で象徴的なのは犬ぞり。
犬を駆っての単独行では世界初の北極点到達を成し遂げています。
最期の冒険で消息を絶ったのも彼を更なるカリスマに押し上げる要因になりました。
「植村直己」の晩年
1978年に犬ぞり単独行で北極点とグリーンランド縦断を成功させた事で更なる名声を手にするも、その代償として抱えた借金7000万返済と更なる冒険の資金調達に日本各地を飛び回る事になりました。
79年は表彰、講演会に忙殺されるも80年はエベレスト冬期登頂に挑んでいます。
結果的にこれは失敗に終わると負のスパイラルに巻き込まれていく事になってしまいます。
82年の犬ぞり単独行南極大陸縦断と南極大陸最高峰への登頂はフォークランド紛争によりアルゼンチン軍の協力が受けられなくなり断念。
南極大陸縦断を行うにはアメリカの協力が必要。
そのため米大企業のデュポン社のスポンサードを目的に渡米。
そのついでに米国・マッキンリー山の世界初冬期単独登頂に挑戦する予定でした。
「植村直己」の死に様
1984年2月13日午前11時、マッキンリー山からの下山中に6096メートル地点での無線通信を最後に消息を絶ちました。
43歳没。
命日は最後に連絡が取れた13日となり認定死亡扱いになっています。
「植村直己」の死に様の信憑性
植村氏が消息を絶って3日後、4900メートル地点で人が目撃されていますが、再度の聞き取り調査でその答えは曖昧なものになりました。
2月下旬には植村氏の母校明治大学の救援隊が5200メートル地点の雪洞から食料と登山装備を発見しており、この拠点にはたどり着けなかった、もしくは見逃したと推測がされています。
前述した様に冬季エベレスト登頂、犬ぞり単独行南極大陸縦断と失敗が続き、年齢的なタイムリミットも迫っていたことから相当な焦りがあったと思われます。
そのため限界を越えて山頂到達。
3時間山頂に滞在した謎は消耗で動けなかったのではないかと推測すれば辻褄はあうのかもしれません。
まとめ
1984年2月13日11時の無線連絡を最後に連絡が途絶え、26日にデナリ国立公園管理事務所が生存の可能性を100%否定。
同年12月にアラスカ州裁判所から認定死亡された事で、改めて2月13日が命日になりました。
13日に消息を絶った後の16日、4900メートル地点で雪洞から手を振る人間が飛行機から目撃されていますが、信憑性には疑問が残るところで、再度の聞き取り時には曖昧な言葉に切り替わっています。
5200メートルの雪洞にたどり着けていないため、それよりも上の地域でアクシデントに見舞われた説が濃厚。
冬のマッキンリーは超暴風がある分、夏のエベレスト以上の難易度を誇るだけに高山病にかかった可能性も高いと言えます。
山頂到達後に空白の3時間がありますが、その時点で何らかの異変があったのかもしれません。