「水木襄」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「水木襄」の死に際とは?日本の人物

過去の栄光が忘れられなかった?「水木襄」の死に際とは?

この記事では水木襄の晩年と死に際について解説していきます。

「水木襄」とは?簡単に説明

東映ニューフェイス4期生で同期には「山城新伍」「花園ひろみ」の元夫婦や早々に役者を見切り作詞家や実業界で花開いた直木賞作家「山口洋子」ら諸氏がいます。

『スピード狂時代 命を賭けて』の野呂幸二役で当時創設間もないエランドール賞の新人賞を獲得。

テレビでは『特別機動捜査隊』の水木刑事役で300話近くに出演。

また『忍者部隊月光』では主演に加え脚本を書いた回が存在しています。

カルト特撮『魔神ハンターミツルギ』『緊急指令10-4・10-10』2作に出演した事でも知られていました。



「水木襄」の晩年

『特別機動捜査隊』を1976年11月3日の第780話「ある女のみち」を最後に降板しています。

水木刑事の所属する三船班は年内残り8話放送分のうち6話を残していたため、やや不自然な形で番組から姿を消しています。

降板と同時に芸能界から引退。

一般の社会人に戻っていますが、職を転々する事になりました。

青森県八戸市内の高級クラブの支配人を皮切りに湯沢東映ホテルの支配人とそれなりの安定した生活を築いていたと思われます。

しかしそれも長続きせず不動産会社の営業部長を経験。

しまいにはスナック経営に乗り出す事になりました。

職を転々とし流浪の民となったのは俳優時代同様の金の使い方をしていたからだとも噂されました。



「水木襄」の死に様

1991年、自宅で遺体で発見されています。

53歳没。

死因は自殺によるものでした。

「水木襄」の死に様の信憑性

水木氏が亡くなったのは死後20年経過した2010年9月14日付けの事でした。

かつて居住していた八戸市を含む青森県半分と岩手県を拠点とする『デーリー東北新聞』に1991年に逝去していた記事が掲載されています。

しかし91年に亡くなったもの死亡日や自宅の所在地は不明でした。

まことしやかに囁かれるのは芸能界での成功体験、かつての華々しい日々から抜け出す事ができずに浪費やスナック経営で多額の借金を重ねていたと言われます。

借金の額や具体的な浪費癖については不明で決して信憑性が高いとは言えません。

しかしかつての栄光の日々を忘却の彼方にする事はできなかったのでしょう。

遺体の発見された自宅には東映時代に自身が主演した12作品をはじめとした出演作品のポスターが所狭しと飾られていたそうです。

まとめ

1991年に自宅で亡くなった姿で発見されました。

53歳没。

死因は自殺によるものでした。

死後20年経過してからデーリー東北新聞に記事が掲載され、故人になっていた事が明らかになっています。

詳細に情報は書かれておらず、没年はわかるもの死没日や死没地は不明。

職を転々した理由は浪費癖で借金を重ねた事からとも言われ、自殺の理由も借金苦によるものと定説になっています。

遺体が発見された自宅には東映所属時代に主演・出演した作品のポスターが多数貼られていたそうです。

思い通りにいかず借金苦の日々を過去の栄光を見返して偲んでいたのは間違いありません。

タイトルとURLをコピーしました