「藤田小四郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「藤田小四郎」の死に際とは?日本の人物

藤田小四郎は、幕末に天狗党の乱を起こした筑波天狗党の中心人物です。

その死に様がどのようなものだったのかを詳しく紹介します。

藤田小四郎とは?

藤田小四郎は、水戸藩主である徳川斉昭の側用人を務めていた藤田東湖の庶子として誕生します。

とても才気煥発な子供だったといわれています。

父の東湖は尊王攘夷派の思想的な基盤を作り上げた水戸学の大家で、小四郎はその父の影響を受けて育ちました。

尊王攘夷思想を掲げて活動を行うようになります。

そして元治元年に、幕府の攘夷延期を不満として、60名あまりの同志と共に筑波山で挙兵します。

これが天狗党の乱と呼ばれるものです。



藤田小四郎の晩年

藤田小四郎の晩年は、天狗党の乱そのものだったといっていいでしょう。

第9代水戸藩主となった徳川斉昭は、藩主の座につくと藩政改革を実施します。

その改革の担い手となった武士達が天狗と呼ばれ、尊王攘夷を唱える過激派が天狗党を形成しました。

藩主の斉昭が安政の大獄によって蟄居させられ急死すると、水戸藩は尊王攘夷派と保守派の争いが激しくなります。

文久3年に起きた政変により、急進的な尊王攘夷運動は挫折します。

水戸藩でも保守派が実権を握りました。

それに不満を抱いた藤田小四郎は、横浜鎖港を巡る問題をきっかけに筑波山で挙兵します。

小四郎は天狗党の首領格でしたが、まだ23歳と若年だったので水戸町奉行の田丸稲之衛門を首領としました。

浪士や農民も集結し、その人数は1000人以上に膨れ上がります。

これに対して幕府は追討のための軍を送り、水戸藩を始めとする諸藩に出兵するよう求め激しい戦いが繰り広げました。

結局、幕府軍の攻撃を受けて敗北し、越前の地で幕府軍に降伏しています。

藤田小四郎は加賀藩に捕縛されました。



藤田小四郎の最期

天狗党の乱が幕府によって鎮圧されると、天狗党員達は次々と処分されました。

天狗党の首領格であった藤田小四郎は、敦賀にある来迎寺で処刑されています。

その首は塩漬けにされて水戸に送られ、水戸城下を引き回されたといわれています。

享年24という若さでその生涯を閉じたのです。

捕らえられた天狗党員は828名でしたが、そのうちの325人もの人が処刑されています。

水戸藩においても、天狗党の家族が子供も含めて次々と処刑されました。

実際の戦闘に加わっていなくても、尊王攘夷派だったというだけで捕らえられたり自刃に追い込まれた者が多かったといいます。

藤田小四郎をめぐる逸話

尊王攘夷運動を掲げた天狗党ですが、町の人々からは暴徒とみられていました。

というのも挙兵したものの資金不足にあえぎ、町人を脅して金品を強奪することもあったからです。

それを拒めば殺害したり、町に放火するなど暴徒と化してしまいました。

まとめ

藤田小四郎は、尊王攘夷運動を掲げ仲間と共に挙兵して天狗党の乱を起こします。

しかし、幕府によって鎮圧され、処刑されてしまいます。

24歳という若さでこの世を去りました。

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