この記事では、島村抱月の晩年や最期について紹介します。
島村抱月とは?
島村抱月とは明治から大正にかけて活躍した劇作家で、新劇運動の指導者としても知られています。
新劇運動は、近代的な演劇を日本で行おうという運動のことをいいます。
島村抱月は坪内逍遥から文学を学び、イギリスとドイツに留学しています。
1906年に師である坪内逍遥と共に、文芸協会を設立しました。
本格的に新劇運動を始めますが、恋愛スキャンダルなどもあって文芸協会は辞めることになりました。
その後は、女優の松井須磨子と共に芸術座という劇団を結成しています。
島村抱月の晩年
島村抱月は晩年に、松井須磨子との恋愛スキャンダルを起こします。
島村抱月は妻子がある身でしたが、文芸協会附属の演劇研究所の看板女優だった松井須磨子と恋に落ちてしまいます。
師である坪内逍遥は二人を別れさせようとしましたが、二人が別れることはありませんでした。
その結果、文芸協会を辞めることになります。
須磨子も研究所を退所することになりました。
そして、須磨子と共に芸術座を旗揚げするのですが、トルストイの小説を題材にした舞台「復活」は大成功を収めます。
須磨子がこの劇中で歌った「カチューシャの歌」は、大ヒットしレコードにもなっています。
また、ロシアのウラジオストクで公演も行っており、好評を博しました。
島村抱月の死に様
島村抱月が須磨子と共に「復活」で大成功を収めてからまもなく、スペイン風邪に罹患してしまいます。
そして、あっけなくこの世を去ってしまいました。
スペイン風邪により急性肺炎を発症したのです。
当時はスペイン風邪が世界的に大流行しており、多くの死者が出ていました。
島村抱月の享年は47です。
島村抱月の死に様の信憑性
島村抱月がスペイン風邪に罹患したのは、先にスペイン風邪にかかっていた須磨子を看病したためといわれています。
須磨子は回復しましたが、後から罹患した島村抱月は亡くなってしまいました。
須磨子は非常に取り乱したとされ、しばらくは芸術座の公演を続けましたがその数か月後に自殺しています。
須磨子は島村抱月と一緒の墓に眠りたいと言っていましたが、島村抱月は離婚してはいなかったため妻はそれを認めませんでした。
まとめ
島村抱月は晩年、愛人である松井須磨子と共に芸術座を旗揚げします。
舞台は大成功を収めますが、スペイン風邪に罹患して亡くなってしまいました。
享年47です。