英雄?悲運の武将「源義経」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では「源義経」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「源義経」とは?簡単に説明
「源義朝」の九男で幼名の「牛若丸」は後世にも“小柄で俊敏な者”を指す言葉として現代にも生き残っています。
義朝が尾張で討たれたことで鞍馬寺に預けられた後、奥州藤原氏の拠点平泉で英才教育を受けている最中、治承・寿永の乱で兄が挙兵しするとこれに呼応。
平家征伐に参戦し手柄をたてますが、頼朝が政権を取ったあとは用済みとなり、悲劇が幕を開けるのでした。
「源義経」の晩年
兄の頼朝を助けるために挙兵し、一連のいわゆる源平合戦に参加し、著しい戦果を義経はあげます。
しかし平家を滅ぼしたあと、頼朝にとっては用済となるどころか、自政権を揺るがす可能性のある危険人物として扱われるようになってしまいました。
父・義朝が二条親政派から梯子を外され、朝敵として追討されたのと皮肉にも似ています。
かつて幼少期をすごした奥州藤原氏のもとへと義経は逃亡しますが、更なる悲劇が待ち受けているとは全く想像ができなったことでしょう。
「源義経」の死に様
幼少期を過ごした平泉へと向かったものの、「藤原秀衡」は早々に亡くなり、「藤原泰衡」は父の遺言に反して義経の処断を決めます。
その裏には執拗に恫喝してくる源頼朝の存在がありました。
これにより安寧の地である平泉から再度京都へと向かうべく、秘密裏に奔走します。
しかし密使の比叡山の僧侶は捕まったことや秀衡の遺言を守り義経を支持する泰衡の弟の「藤原忠衡」の存在もあったのか平泉から動きませんでした。
その結果泰衡は頼朝に屈した形で閏4月30日に衣川館を50倍の戦力を持って奇襲します。
「武蔵坊弁慶」らは抵抗するも多数に無勢で討ち取られ、義経自身は諦めたのか戦わずに持仏堂に籠り、静御前と娘を自らの手にかけたあと自害したと言われています。
享年31歳のことでした。
「源義経」の死に様の信憑性
義経は“判官贔屓”の語源になっているため、信憑性が高い伝承であっても、昭和後期に入って様々なアプローチで真実の裏を取ってみると“実は○○だった”と判明した事例と多々あるため、そこを割り引いて考える必要があるでしょう。
判官贔屓は室町時代中期の成立ですが、これに加えて頼朝亡き後の“北条執権政治”の時代の文書は逆に頼朝の評価を下げる、悪意を持った記載の傾向があり、単純には読み取れません。
鎌倉時代の基本史料となる『吾妻鏡』でもそれは同様、関白「九条兼実」の記した『玉葉』と相互補完していくのがいいはずです。
まとめ
源義経は優れた戦術眼を持った戦略家として優秀だったのは間違いありません。
生い立ちも不明、兄に疎まれ都を追われたことなど悲運の武将として多々後生で脚色されやすいキャラクターの持ち主でした。
ただ清廉潔白の英雄とは必ずしも言えず、それなりの野心や頼朝に対して、叛意があったのは間違いないでしょう。