この記事では、土方与志の晩年や最期について紹介します。
土方与志とは?
土方与志とは日本の演出家で、築地小劇場を舞台に新劇運動を興した人物として知られています。
伯爵であった土方久元の嫡孫として生まれます。
父は生後3か月の頃に自殺しているので、祖父の死によって爵位を継ぎました。
中学時代から演劇活動を始め、大学卒業後に演出家の小山内薫に師事して演出を学びました。
関東大震災の後、小山内薫らと共に私財を投じて築地小劇場を創設します。
翻訳劇を中心に行っており、新劇運動の拠点となりました。
土方与志の晩年
土方与志は1934年、妻と共にソビエト連邦を訪れます。
日本プロレタリア演劇同盟の代表として訪れています。
日本では築地小劇場をめぐる内紛などもあり、新築地劇団を創設していました。
社会主義的な傾向を強め、プロレタリア演劇を多数上演しています。
プロレタリア文学の代表作である「蟹工船」は帝国劇場で上演されました。
しかし、官憲から弾圧を受けるようになり、検挙されたこともあります。
「蟹工船」の作者である小林多喜二も拷問により亡くなりました。
そのことをソビエト連邦訪問時に口にすると日本に伝わり、爵位を剥奪されてしまいます。
土方は日本に帰国せずに亡命しますが、数年後に国外追放処分を受けパリに移りました。
その後、生活に行き詰まって帰国し、治安維持法違反で逮捕され刑務所に収監されます。
第二次世界大戦後に釈放され、前進座や舞台芸術学院において演劇活動を再開しました。
また、共産党に入党しています。
舞台芸術学院では、副学長を務めています。
後進の育成を熱心に行いました。
1947年には映画「女優」で、島村抱月の役で出演しています。
土方与志の死に様
土方与志は、1959年に亡くなっています。
享年61でした。
詳しい死因などについてはよく分かっていません。
土方与志の死に様の信憑性
土方与志の死ははっきりしたことは分かりませんが、ソ連に亡命したり刑務所に投獄されたことを考えると、穏やかなものだったと思われます。
土方与志は祖父が亡くなる前日に妻の梅子と結婚しており、梅子は当時16歳でした。
二人の間には息子も二人生まれており、亡命した時は家族も一緒にモスクワに滞在しました。
まとめ
土方与志はソ連に亡命したり、政治犯として投獄されるなど波乱万丈の人生を送りました。
そして戦後は演劇活動に邁進し、61歳で亡くなっています。