「平重盛(たいらのしげもり)」とは?
平重盛の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「平重盛」とは?簡単に説明
平重盛は平清盛の長男で、文武に優れ、平家一門の若き棟梁として活躍し昇進し続けていきます。
しかし、清盛と後白河上皇との間の調整役になると、この2人の関係が次第に悪化していくことで棟梁としての地位も危ぶまれていき、精神的にも追い込まれていきます。
そして、鹿ヶ谷の陰謀事件の発覚により失脚し、失意のまま若くして亡くなります。
「平重盛」の晩年
青年期の重盛は保元の乱・平治の乱で大活躍するという華々しい戦果を挙げ、清盛の後継者としての地位を高めていきます。
しかし、順風満帆に見えた重盛ですが、晩年には平家の次期棟梁の問題と清盛・後白河上皇の関係悪化という2つの大きな問題に心を痛め、かなりのストレスを抱えることになります。
精神的に追い詰められた重盛は次のような言葉で自分の立場を清盛に涙ながらに訴えています。
「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」という名言です。
晩年の重盛は自ら「早く死にたい」と呟くようになります。
また、亡くなる1年前には自らの死期を悟って公の場所に姿を見せなくなり、剃髪して最期を迎える準備までし始めています。
「平重盛」の死に様
亡くなる半年前ぐらいから吐血するなどの症状が悪化します。
そしてついに1179年(治承3年)閏7月29日に平重盛は亡くなっています。
死因は胃潰瘍とされていますが、背中にできた腫瘍、脚気などの説もあります。
享年42。
「平重盛」の死に様の信憑性
重盛は鹿ヶ谷の陰謀事件を機に政治的地位を失うことになり、政治の表舞台にはほとんど姿を見せなくなっています。
実質的には隠居している平清盛と後白河上皇との調整役に徹していた重盛ですが、この事件によりこの2人の権力者の関係が完全に崩れたことにより、2人の間で板挟みになり、相当のストレスを抱えていたと想像されます。
胃潰瘍の原因の一つである過度のストレスはこのような情勢の中で重盛の身体を蝕んだとしても不思議ではありまあせん。
亡くなる半年前くらいから吐血するようにもなり、胃潰瘍の特徴的な症状も現れています。
このようなことから重盛が胃潰瘍で亡くなったと考えるのは妥当であり、信憑性も高いと考えられます。
まとめ
平重盛は貴族からも武士からも慕われる人柄で、正義感も強く、晩年は暴走気味だった清盛を制止できる唯一の人物でした。
平清盛と後白河上皇という二大権力者の調停役になったことで、2人の間で板挟みになり、これにより高じたストレスは想像に絶するもので、これが重盛の命を縮めた原因と言われていますが、納得できます。
もし、重盛が出自の問題もなく清盛の後継者となり、後白河上皇と忠臣の関係がなければ、重盛は早世することなく平家をまとめ上げてあれほど簡単には滅亡しなかったと想像されます。