「難波康子」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「難波康子」の死に際とは?日本の人物

この記事では、「難波康子」の晩年や最期を分かりやすく説明します。

「難波康子」とは?

難波康子とは日本の登山家の1人で、七大陸最高峰登頂を成し遂げた人物です。

東京都大田区出身で、早稲田大学時代にワンダーフォーゲル同好会に所属していました。

1974年に航空貨物会社のフライング・タイガーラインに入社します。

会社に勤務しながら登山を続け、エベレストクラブを設立しました。

海外の国際公募隊に参加して、モンブランやキリマンジャロ、マッキンリー(デナリ)などの山々を次々と登頂していきました。



「難波康子」の晩年

難波康子は晩年も会社勤務を続けており、休暇を利用して登山も行っていました。

これはとても珍しいことで、著名な登山家はスポンサーを得て登山のための資金を得ています。

メディアなどにも積極的に出るのが一般的でした。

難波康子はメディアに露出することはなく、自身の収入で登山の費用を賄っていたといいます。

登山のために長期休暇を取得する際には、土曜日や日曜日などの休日にも仕事をしていました。

1992年にエルブルス、1993年にヴィンソン・マシフ、1994年にカルステンツ・ピラミッドの登頂に成功しています。

そして、1996年5月にエベレスト登頂に成功し、七大陸最高峰制覇を成し遂げています。



「難波康子」の死に様

難波康子がエベレストの登頂に成功したのは、1996年5月10日のことです。

47歳の時でした。

日本人として2人目の七大陸最高峰制覇で、日本人女性としては2番目にエベレスト登頂に成功したのです。

しかし、下山中に猛吹雪に巻き込まれ、遭難してしまいます。

そして凍死しました。

「難波康子」の死に様の信憑性

難波康子は遭難した後、しばらくは生きていたといいます。

最終キャンプ地から300m程のところまできていましたが、猛吹雪のため立ち往生してしまいました。

そして、低体温症により亡くなったのです。

難波康子の遺体は翌年回収され、遺族が立ち合い荼毘に付されました。

夫はエベレストクラブで知り合った難波健一です。

通常、遺体は山に残したままにすることが多いのですが、夫は遺体を運んでベースキャンプで火葬することを選びました。

まとめ

難波康子は47歳で、エベレスト登頂という偉業を成し遂げます。

七大陸最高峰を制覇しました。

しかし、下山中に猛吹雪に巻き込まれ、そのまま亡くなってしまいます。

死因は凍死でした。

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