「足利義晴」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「足利義晴」の死に際とは?日本の人物

若くして将軍となった室町幕府第12代将軍「足利義晴」は、相次ぐ政権争いに翻弄された末に、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「足利義晴」の生涯と最期について分かりやすく解説していきます。

「足利義晴(あしかが よしはる)」とは?簡単に説明

「足利義晴」はわずか11歳にして室町幕府第12代将軍になりました

若くして将軍に就任した「足利義晴」ですが、室町幕府は実質「細川高国」をはじめとする幕臣たちによっと取り仕切られていました。

しかし、大永6年(1526年)に「細川高国」「細川晴元(ほそかわ はるもと)」とのあいだで内紛が勃発します。

内紛の末に「細川高国」は敗北し、「足利義晴」も再び近江へ落ちのびることになりますが、以後、対立勢力との交渉のために帰京しては近江へ出奔という往復を繰り返しています。

やがて、「細川高国」勢力は総崩れとなってしまいます。

その後、「足利義晴」「細川晴元」と和解しますが、今度は「細川晴元」「細川氏綱(ほそかわ うじつな)」(細川高国の後継)のあいだで内紛が勃発します。

当初は「細川晴元」を指示していた「足利義晴」でしたが、その後「細川氏綱」に与します。

この内紛でも「細川晴元」が勝利を収めますが、「足利義晴」は和睦が承諾され帰京することができました。

しかし、今度は「細川晴元」と家臣の「三好長慶(みよし ながよし)」のあいだで内紛が勃発します。

「足利義晴」「細川晴元」を支持しますが、天文18年(1549年)の「江口の合戦」にて、「細川晴元」は討死し、「足利義晴」はまたしても近江へ落ちのびることになってしまいます。



「足利義晴」の最期

京都奪還を目指し、「中尾城」の築城に取り掛かるも、天文19年(1550年)に穴太(現滋賀県大津市穴太)にて悪性の水腫により病没します。

享年40歳でした。



「足利義晴」の死に様の信憑性

横瀬成繁に充てられた書状には自害と書かれており、家臣に前々より死ぬと宣言していたため、病状の悪化を苦に自害した可能性もあります。

足利義晴の葬儀は東山慈照寺で行われています。

まとめ

「足利義晴」は室町幕府大12代将軍です。

11歳で将軍に擁立されますが、相次ぐ政権争いに翻弄された末に、悪性の水腫が原因で病没します。

享年40歳でした。

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