「足利義昭」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「足利義昭」の死に際とは?日本の人物

「足利義昭」は織田信長との同盟を破り、天下取りに抗った人物として有名です。

しかし、その最期はどうなったのかまでは、チェックしていない方も多いかもしれません。

そこで今回は、少しマイナーと言えそうな、彼の晩年と死にざまについて紹介していきます。

「足利義昭」とは?簡単に説明

250年ほど続いた室町幕府における第15代将軍であり、そして最後の将軍になったのがこの、足利義昭です。

足利家の次男として生を受けたため、慣例によって家督相続者でない子として出家。

そのまま僧侶として天寿を全うするはずだったのですが、時は戦国。

権謀術策が張り巡らされた世界で、思いがけず表舞台に登場することになります。

まず、彼の運命を変えたのは足利家の長男・第13代将軍の義輝が殺害された事件です。

これにより将軍の継承権を獲得したのですが、彼の身にも危機が及び、敵対勢力の手に落ちて幽閉されてしまいます。

以後は危険な脱出劇を演じた上、敵対勢力と壮絶な戦いを繰り広げるなど、戦乱の世にあって凄まじい経験をした挙句、亡命するに至りました。

そんな彼の命運を変えたのが、織田信長との出会いです。

信長と協力した義昭は、快進撃に乗じ、室町幕府15代将軍の座についたのでした。



「足利義昭」の凋落

将軍となった義昭は信長と良好な関係を続けるかに見えましたが、そうはいきません。

信長は天下統一を志し、義昭は幕府の復興を目指していたのです。

結果、両者は暫くのちに反目、義昭が裏切る形で関係は決裂します。

一時期は信長を窮地に追い込んだものの、仕留めきれません。

逆に、しばらくして勢力を回復した信長に攻め込まれ、敗走。

京から追放されたことで、事実上、室町幕府は終戦を迎えます。

義昭は将軍家を支持していた諸大名を頼る形で何とか権威を保ちますが、天下が秀吉のものになると対応しきれず、やがて将軍を辞任しました。



「足利義昭」の晩年

信長に対抗し、秀吉ともやりあった義昭ですが、将軍辞任後は意外と好待遇を受け、晩年はそれなりに充実していたようです。

秀吉の話し相手として重宝された他、旧知の仲だった毛利輝元らとも再開を果たしています。

「足利義昭」の死に様

1592年に文禄の役(朝鮮出兵)に参加したのが、命取りとなりました。

この戦役では義昭は高齢ながら、従前から信頼の厚かった奉公衆などを従えて行軍。

その威容は見るものから称賛を浴びたそうです。

しかし、この時に彼が出向いた名護屋城は佐賀県にあります。

京都から九州までの旅がこたえて、数か月後に病臥し、そのまま息を引き取りました。

「足利義昭」の死に様の信憑性

病死と言うのは、まず間違いがないでしょう。

死因は腫物とされていますが、足利義栄も同じ病気で落命しているため、信憑性は感じられます。

60歳で亡くなっていますが、当時としてはこの年齢はかなり高齢者の部類。

無理がたたって、病気が急速に進行したのではないかと言われています。

ただ、逝去した場所が大坂だったり、広島だったりと曖昧です。

まとめ

足利義昭の最期についてまとめてきました。

彼について調べている方に、役立てて頂ければ幸いです。

ちなみに、彼の葬儀はもの寂しい、粗末なものだったと伝わっています。

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