この記事では、「織田作之助」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「織田作之助(おだ さくのすけ)」とは?簡単に説明
「織田作之助」は日本の小説家です。
「織田作(おださく)」の愛称で親しまれ、「太宰治」や「石川淳」らも名を連ねる無頼派、新戯作派の作家として扱われています。
小学校の頃より、同人活動に参加し、高校の頃には会誌の編集委員を務めました。
劇作家志望でしたが、後に小説家へ転向し、処女作である小説「ひとりすまう」を発表します。
「織田作之助」の晩年と最期
1939年(昭和14年)に「宮田一枝」と結婚式を挙げ、作家活動と同時に新聞社に勤務していました。
1941年(昭和16年)に風俗壊乱を招く可能性があるとして「青春の逆説」が内閣情報局より発禁処分を受けますが、当時の世俗を描写した「世相」を著すなど、無頼派、新戯作派の作家として活動を続けました。
1943年(昭和18年)には映画監督である「川島雄三」と日本軽佻会を結成しますが、翌1944年(昭和19年)に妻の「一枝」が癌で亡くなってしまいます。
1946年(昭和21年)に「笹田和子」と再婚しますが、同年12月に結核が原因で大量の血を吐き、急遽、東京病院へ入院することになります。
その後、病状は徐々に悪化していき、翌年の1947年(昭和22年)1月10日に33歳でこの世を去りました。
「織田作之助」の死に様の信憑性
「織田作之助」が逝去したことにより、当時、連載していた「土曜夫人」は12月8日をもって連載終了となりました。
通夜は一旦、東京都で行われ、13日に荼毘に付された後、大阪にてもう一度通夜、並びに葬儀が行われました。
「織田作之助」は普段からライターや注射器、そして、亡くなった妻「一枝」の写真と遺髪を持ち歩いていたそうです。
「織田作之助」の没後、それらは日本近代文学館へ保管されることになりました。
まとめ
「織田作之助」は「織田作(おださく)」の愛称で親しまれた日本の小説家です。
「太宰治」や「石川淳」らも名を連ねる無頼派、新戯作派の作家として活躍しました。
1946年(昭和21年)の12月に結核による大量の吐血で入院します。
そして、翌年の1947年(昭和22年)1月10日に息を引き取ります。
享年33歳でした。
ちなみに、大阪文学振興会により1983年から「織田作之助」の名を冠する織田作之助賞が主催されています。