「吉田松陰」の門弟の1人、長州藩士「品川弥二郎」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「品川弥二郎」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「品川弥二郎(しながわ やじろう)」とは?簡単に説明
「品川弥二郎」は長州藩の足軽の家に生まれ、やがて「吉田松陰」の「松下村塾」へ入門します。
「松陰」が刑死した後は「英国公使館焼き討ち」や「禁門の変」に参加し、尊王攘夷活動に身を投じるのでした。
「禁門の変」敗北後には、長州藩の同志と共に「御盾隊(みたてたい)」を結成し、「長州征伐」などで幕府軍と戦います。
「薩長同盟」締結にも連絡係として尽力し、「戊辰戦争」では奥羽鎮撫総督参謀や整武隊参謀を務めました。
明治維新後はヨーロッパへの留学を経て内務少輔や枢密顧問官など、政務の要職を歴任することになります。
「品川弥二郎」の晩年と最期
明治24年(1891年)に第一次松方内閣における内務大臣へと任じられます。
そして、翌明治25年(1892年)に「第二回衆議院議員総選挙」が行われた際、「品川弥二郎」は警察権力を行使し、選挙が与党にとって有利に運ぶように「選挙干渉」を行いました。
「選挙干渉」を敢行した結果、死傷者まで出してしまうも、与党は野党に敗北してしまいます。
その後、「品川弥二郎」は選挙干渉を行ったことや、それに伴い死傷者を出してしまった責任を追及され、辞任に追い込まれました。
辞任後は、「西郷従道(さいごう つぐみち/じゅうどう)」と共に政治団体である「国民協会」を創設します。
産業組合・信用組合の設立にも努め、教育機関として獨逸学教学学校(独協大学)、旧制京華中学校(京華学園)を創立しました。
また、維新のために命を落とした志士たちを弔うために「尊攘堂」を設立し、京都大学へ寄贈しています。
そして、明治33年(1900年)にインフルエンザと肺炎を併発したことにより、享年58歳で病没しました。
「品川弥二郎」の死に様の信憑性
インフルエンザに肺炎を併発したことが死因とされています。
「品川弥二郎」の選挙干渉
「第二回衆院選」では「富国強兵」を掲げる与党に対して、野党は主に「減税」を掲げていました。
そこで、形勢不利と見た「品川弥二郎」は警察権力を行使、各地で与党に有利な票の集計となるように選挙干渉を敢行したのです。
しかし、有権者の中には選挙干渉に抵抗して警察と争った者もおり、死者25名、負傷者数百名を出す事態になってしまいました。
その結果、与党は敗北し、松方内閣も「品川弥二郎」をはじめ、最終的に総辞職となるのでした。
まとめ
「品川弥二郎」は長州藩士であり、「吉田松陰」に師事した人物です。
「松陰」の死後は維新志士として活動し、「長州征伐」や「戊辰戦争」にて幕府軍と戦いました。
明治維新後は、政務の要職を歴任しますが、明治25年(1892年)の「第二回衆議院議員総選挙」にて選挙干渉を敢行した結果、責任を問われ辞任します。
その後、組合や学校の設立に注力しますが、明治33年(1900年)にインフルエンザと肺炎を併発し、享年58歳で病没しました。