僧侶、油商人を経て武士となり、下剋上の末に大名まで登りつめた「美濃の蝮」こと「斎藤道三」はどのような最期を遂げたのでしょうか?
この記事では、「斎藤道三」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「斎藤道三(さいとう どうさん)」とは?簡単に説明
「斎藤道三」とは、戦国武将及び戦国大名であり、下剋上で美濃国(現在の岐阜県南部)を乗っ取ったことで有名です。
「蝮(まむし)」の子が親の腹を食い破って生まれるという迷信になぞらえて「美濃の蝮」とも称されます。
「斎藤道三」の出生については定かとなっておらず、11歳で出家した後に20歳で還俗(げんぞく/出家した者が俗人へ戻ること)し、油商人として成功を収めた末に武士となります。
武士となった後は、美濃国の「土岐氏」家臣となりますが、やがて下剋上を行い美濃国を乗っ取りました。
「斎藤道三」の晩年と最期
天文23年(1554年)に「斎藤道三」は家督を嫡男「斎藤義龍(さいとう よしたつ)」へ譲り、自身は鷲山城で隠居します。
この時に常在寺にて出家し、号(ごう/本名とは別に使用する名称)として「道三」を名乗りました。
この家督相続は突然のことであり、「斎藤道三」を疎んでいた家臣たちにより強要されたとされています。
また、「斎藤道三」は側室との子である嫡男「斎藤義龍」よりも、正室との間にもうけた弟たちを寵愛しており、やがて「斎藤義龍」の廃嫡を思索し始めました。
対して「斎藤義龍」は、弘治元年(1555年)に弟らを殺害後、「斎藤道三」を相手取り挙兵、「長良川の戦い」が起こります。
「美濃乗っ取り」のことや「斎藤道三」排除の目論みも重なり、道三方に味方する旧土岐家臣は少なく、その差は義龍軍兵17500に対して、道三軍はたったの兵2500でした。
嫁婿である「織田信長」へ援軍要請するも間に合わず、「斎藤道三」は敗北し、討死します。
享年63歳でした。
「斎藤道三」の死に様の信憑性
「斎藤道三」の首を討った敵将として「長井道勝」、「小牧源太」、「林主人」の名が挙げられています。
一説では、最初に「長井道勝」が「斎藤道三」に組みつき、「小牧源太」が横から「斎藤道三」を倒して、首を討ったとされています。
また、「長井道勝」は自分が最初に討ち取った証として「斎藤道三」の鼻を削いだとも云われています。
「斎藤道三」と「斎藤義龍」
「斎藤道三」は嫡男「斎藤義龍」を無能と断じていましたが、「長良川の戦い」における見事な采配を見て、息子に対する評価の誤りを後悔したと伝えられています。
まとめ
「斎藤道三」とは、「美濃の蝮」とも称され、下剋上で美濃国を乗っ取った戦国武将、並びに戦国大名です。
若くして出家した後に還俗、油商人を経て武士となりました。
美濃国掌握後、嫡男「斎藤義龍」との確執や、家臣たちによる思惑も重なり「長良川の戦い」が起こります。
「斎藤道三」はこの戦にて討死、享年63歳でした。