この記事では、黒澤明の晩年や最期について紹介します。
黒澤明とは?
黒澤明とは日本映画の巨匠で、「七人の侍」や「乱」「生きる」「用心棒」など数々の名作を世に送り出しました。
国際的にも高い知名度を誇り、ジョージ・ルーカスにも影響を与えたといわれています。
映画の脚本は自らが執筆しており、細かい部分まで徹底的にこだわった映画作りが特徴です。
1950年に公開された映画「羅生門」では、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しました。
その後も国内外で数々の映画賞を受賞しており、映画監督として初めて国民栄誉賞も受賞しています。
黒澤明の晩年
黒澤明は晩年になっても、映画監督として映画製作に情熱を燃やし続けていました。
しかし、国内では資金集めが思うようにいかず、海外資本によって作られた映画もあります。
1990年に公開された「夢」は日米合作で、黒澤明を尊敬するスティーヴン・スピルバーグの尽力によって制作することができた作品です。
黒澤明自身が見た夢を題材にしており、晩年には自伝的な要素を持つ作品が多くみられます。
その後は国内資本によって映画製作を行い、1991年には「八月の狂詩曲」、1993年には「まあだだよ」が公開されています。
「まあだだよ」は、日本の小説家である内田百聞をめぐる師弟愛を描いた作品です。
これが黒澤明の遺作となりました。
黒澤明の死に様
黒澤明は、山本周五郎の短編小説を原作とする「雨あがる」の脚本の執筆を進めていました。
しかし、執筆中に転倒して骨折し、その後は車椅子生活となってしまいます。
「雨あがる」の脚本は未完のままとなります。
そして、リハビリには取り組んでいましたが、1998年に自宅で脳卒中を起こし亡くなります。
享年88でした。
黒澤明の死に様の信憑性
黒澤明が亡くなる8か月前に、俳優の三船敏郎が亡くなっています。
三船敏郎は黒澤映画に何度も出演している実力派俳優で、黄金時代を築いたコンビといっても過言ではありません。
しかし、骨折してリハビリ中だった黒澤明は、三船敏郎の参列することは叶いませんでした。
この時には、黒澤明の息子である久雄が弔辞を代読しています。
高齢だったことを考えると、葬儀に参列するのが難しい程弱っていたと考えられます。
まとめ
黒澤明は晩年も映画製作に取り組んでいました。
次回作の脚本を執筆中に骨折しリハビリを続けていましたが、脳卒中を起こして亡くなります。
88歳でした。