「沢庵宗彭」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「沢庵宗彭」の死に際とは?日本の人物

沢庵宗彭は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて生きた僧で、たくあん漬けの由来にもなりました。

沢庵宗彭の晩年や最期について紹介します。

沢庵宗彭とは?

沢庵宗彭は、父が浪人となったため10歳で出家しました。

南宗寺で沢庵の法号を得ます。

その後、大徳寺の首座となりますが、郷里に戻って隠棲生活に入りました。

寛永5年に紫衣事件が起きると、沢庵宗彭は、幕府に抗議する抗弁書を提出しました。

これが幕府への反抗と捉えられ、沢庵宗彭は流罪となります。

そして、徳川幕府の第二代将軍・秀忠が亡くなったことで大赦令が出て、赦免されました。



沢庵宗彭の晩年

沢庵宗彭は、柳生宗矩の勧めによって第三代将軍・徳川家光に拝謁します。

家光は深く沢庵宗彭に帰依するようになり、江戸に留まるように求められました。

すでに60歳を超えていましたが、家光に近侍することとなり京都と江戸を往復する生活を送ります。

江戸にいる時は柳生宗矩の屋敷に滞在し、家光から呼び出されると禅を説いたといいます。

京都に上った際には、後水尾天皇に講義を行ったりもしています。

国師号を授与しようという話もありましたが、沢庵はこれを断っています。

そして67歳の時、徳川家光の命令によって創建された東海寺の住職となりました。



沢庵宗彭の最期

沢庵宗彭は、江戸において74歳で亡くなります。

弟子に看取られる形で、静かに息を引き取りました。

弟子から残したい言葉を求められた沢庵宗彭は、「夢」という字を書いたという逸話が残っています。

葬式はしないように、香典も受け取ってはならない、墓碑も残してはならないと遺言したといいますが、東海寺と生まれ故郷にある寺に沢庵宗彭の墓が残されています。

紫衣事件とは?

沢庵宗彭が配流された紫衣事件は、江戸幕府と朝廷が対立した事件です。

紫衣は、高僧や高尼が朝廷から賜るものでした。

僧や尼の尊さを表すものだったのです。

それに対して幕府は、紫衣の授与を規制しようとします。

朝廷が勝手に紫衣を授与することを禁じました。

しかし、後水尾天皇はそれに従わなかったので、将軍である家光は紫衣を取り上げるように命じます。

それに反発したのが、沢庵宗彭を始めとする高僧たちでした。

朝廷の考えに同調し、抗弁書を提出するに至ったのです。

幕府が抗弁書を提出した僧たちを罰すると、沢庵宗彭は自分一人が書いたものなので他の僧たちのことは許してほしいと言ったといいます。

配流されたのは出羽国上山で、藩主は沢庵宗彭の生き方に感銘を受け、手厚く遇したといわれています。

沢庵宗彭をめぐる逸話

沢庵宗彭は、たくあん漬けの名前の由来になったといわれています。

たくあん漬けを考案したのが沢庵宗彭という説もありますし、広めたのが沢庵宗彭だったという説もあります。

まとめ

沢庵宗彭の晩年は、徳川家光の近侍となり京と江戸を行ったり来たりしていました。

家光の求めに応じて禅を説いたといいます。

江戸において、74歳の時に亡くなりました。

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