ミスターラクビー、日本歴代No. 1スタンド・オフの散り際とは?この記事では「平尾誠二」の晩年と最期について解説します。
「平尾誠二」とは?簡単に説明
伏見工業から同志社大学から神戸製鋼ラグビー部でプレー。
ポジションは日本でもっとも人気のあるスタンドオフとして活躍したのが「平尾誠二」だと言っていいでしょう。
高校、大学、社会人全てで優勝を経験。
伏見工を初優勝に導いたのに加え、同大の大学選手権3連覇や神戸製鋼の日本選手権7連覇と常勝の人でした。
国際大会では勝利が遠かったもののワールドカップでの日本の初勝利に貢献、歴史を作っています。
また『スクールウォーズ』の平山誠は彼がモデルで世間への知名度の高さは群を抜いていました。
「平尾誠二」の晩年
神戸製鋼ラクビー部が前身の「神戸製鋼コベルコスティラーズ」のGMへ就任。
監督よりも一段高い視点でチームを運営。
サッカーよりもラクビーが人気があった時代の経営者も多く、スーパースターであった平尾氏は人気を集め、講演会や懇親会で全国を飛び回っています。
またラグビーの解説者としても活躍。
イングランドで開催される『ラグビーワールドカップ2015』の日本テレビ解説者を務める予定でした。
その渡英準備中に異変が起きてしまうのでした。
「平尾誠二」の死に様
突如病魔が牙をむいたのはまもなく渡英を予定していた2015年9月12日未明のこと。
自宅で喀血、その日のうちに検査を受けたところ、胆管細胞がんだと判明しています。
既にがん細胞は手のうちようがないほど肝臓内に広まり、年内生きられるかもわからない状態でした。
それでも八方手を尽くし、二種類の新薬の治験、免疫療法を行いましたが、力尽きてしまいます。
2016年10月20日7時16分に平尾誠二は53歳で永眠。
死因は胆管細胞がんでした。
「平尾誠二」の死に様の信憑性
2016年の夏には同じ80年代のスポーツ界におけるスーパースターであった「千代の富士」が亡くなっています。
彼同様に4月に公式の場に現れた姿が衝撃的な痩せ方で、全く現役時の面影がありませんでした。
このため当時から平尾氏の健康状態を心配する声が多数あがっており、死去の一報が入ってもスポーツ紙やネットニュースで激ヤセ姿を見た人には驚きはなかったと言えるでしょう。
また当初は遺族の意向で公表されていなかった死因は次第に明らかにされていきました。
息子の「平尾昂大」氏やiPS細胞で有名な京大教授の「山中伸弥」氏の回顧録で知ることができます。
特に山中氏は家族以外で病気の事実を最初に知らせた人物で平尾氏の相談に応じて、治療法に付いてのアドバイスをしたことが明かされています。
まとめ
2016年10月20日7時16分に「平尾誠二」はその生涯を終えました。
53歳没。
ラクビー関係者が待ち望んでいた『ラグビーワールドカップ2019』日本開催を待たずに亡くなっています。
既に15年秋にCT検査した段階で絶望的なほどがん細胞は広まっていました。
年内持たないと言われながらも、不屈の精神で告知から1年以上生き、命を全うしたと言っていいでしょう。