実在の人物、それとも架空の人物?「吉積めぐみ」の死に際とは?
この記事では吉積めぐみの晩年と死に際について解説していきます。
「吉積めぐみ」とは?簡単に説明
本名は吉積恵、複雑な家庭環境に育ったがゆえに1964年に流行したみゆき族やフーテン族を経験。
その後新宿の映画館で見た「若松孝二」監督の映画作品『胎児』を見て怠惰な日々に終止符をうつ事を決意。
若松プロの門を叩くと雑用係を経て日本初のポルノ映画女助監督の座を勝ち取っています。
「吉積めぐみ」の晩年
20歳を過ぎた頃に「若松孝二」監督の率いる若松プロに入社。
雑用係をこなしつつ信頼を勝ち取ると助監督に抜擢。
少人数のプロダクションの助監督のため、一般の中間管理職以上に雑多な仕事に忙殺される日々だったそうです。
それでも若松氏の映画に感銘を受けて、プロダクションの門を叩いた事から充実した日々を過ごしていたのは間違いないと言えるでしょう。
約20本の作品に助監督として立ち会う経験を積みました。
72年春には更なるステップアップも予定されており、過酷ながらも少女期よりも満ち足りた生活を送っていたのは間違いありません。
「吉積めぐみ」の死に様
1971年9月13日、東京都新宿区下落合の自宅アパートで死亡している姿で発見されています。
23歳没。
死因は病死または薬物中毒死によるものだと監察医による解剖で判定されました。
「吉積めぐみ」の死に様の信憑性
当時の新聞記事に加え、2018年に映画『止められるか、俺たちを』が公開され、その主人公として彼女が描かれた事でその死は改めてクローズアップされる事となりました。
昭和のタブロイド紙の記事には時代を反映して没時のアパートの住所まで記載されており、信憑性は高いと言えるでしょう。
9月13日14時頃に知人のカメラマンがアパートを訪れた事により、死が発覚しています。
上半身は裸で下半身はパジャマのズボンという姿で頭から毛布を被っていたとされ、一見他殺に見える状態だったとも言われます。
そのため監察医による解剖で死因が特定されていますが、病死または薬物中毒死だと判定される事になりました。
このため映画の顛末にあった睡眠薬を貪りながらウイスキーで流し込んだ事により亡くなったのは必ずしも正確だとは言えません。
睡眠薬を濫用していたのは事実ですが、過酷な助手監督業に加えウイスキーの角瓶を半分空けるほどの酒量の日々により、心臓、肝臓、膵臓も解剖の結果弱っている事が判明。
枕元には胃薬の瓶も置かれており、慢性的な痛みを抱えていたと思われます。
まとめ
1971年9月13日、東京都新宿区下落合のアパートの自室で亡くなっている姿で発見されています。
14時に知人のカメラマンがアパートを訪れて発覚しており、上半身は裸で下半身はパジャマのズボンという異様な姿だったと言います。
頭から毛布が被されており、上半身裸でもあった事から他殺も考慮され、監察医によって解剖されて判定がされました。
その結果は病死または薬物中毒死によるものだとされています。