「佐竹義重 (十八代当主)」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「佐竹義重 (十八代当主)」の死に際とは?日本の人物

佐竹義重は常陸国の戦国大名で、佐竹氏の第18代目の当主に当たります。

佐竹義重の晩年と最期を紹介します。

佐竹義重とは?

佐竹義重は、清和源氏の流れを組む佐竹氏に生まれます。

父である義昭の隠居に伴い、家督を継いで第18代目の当主となりました。

常陸統一を悲願とし、上杉謙信の支援の元で勢力を徐々に拡大していきます。

北条氏政や伊達政宗とも領土をめぐって争いますが、伊達氏との抗争には敗れました。

義重は長男である義宣に家督を譲って隠居します。

豊臣秀吉が天下を取ると、義宣と共に小田原征伐に参加して、秀吉から領地を安堵されました。



佐竹義重の晩年

佐竹義重は、豊臣秀吉から常陸国54万石の支配権を認められます。

北は伊達氏、南は北条氏に挟まれ、佐竹氏は非常に苦しい立場に置かれていましたが、豊臣秀吉の支援を受けることで常陸での立場を強固なものにすることができました。

周辺の勢力を一掃して、常陸統一を成し遂げます。

これは早くから織田信長や豊臣秀吉と通じていた義重の先見性によるものと考えられます。

豊臣秀吉の威光を借りることで、伊達氏にも対抗することができたのです。

義重は家督を義宣に譲った後も実権を握っていましたが、小田原征伐の後は実権も義宣に譲って太田城で隠居生活を送りました。

北城様と呼ばれ、悠々自適な生活を送ったとされます。

しかし、豊臣秀吉没後の関ケ原の合戦では、またしても佐竹氏において影響力を発揮します。

息子である義宣は石田三成がいる西軍側につこうとしました。

元々、義宣は石田三成と懇意にしていたからです。

しかし、義重や佐竹氏の重臣たちは徳川家康がいる東軍に味方するべきと主張して、父と子は対立することとなりました。

結局、どちらにつくべきか決められなかった義宣は戦いに参加せず、関ヶ原の戦いの後には出羽国20万石に厳封されてしまったのです。

本来であれば領地を没収されても仕方がないところでしたが、義重が徳川家康と秀忠に願い出て、領地の没収は免れることができました。



佐竹義重の最期

佐竹義重は出羽国に転封されると、家宣とは別に城を構えます。

六郷城に居を構えて、佐竹氏に反する勢力に目を光らせていました。

しかし、1612年に鷹狩をおこなっていたところ、落馬して亡くなってしまいます。

享年66でした。

66歳になっても狩猟を楽しんでいたのですから、健康であったことが伺えます。

佐竹義重をめぐる逸話

佐竹義重は戦国時代にあって、武勇に優れた武将として知られていました。

勇猛果敢に戦うことから「鬼」と呼ばれていたようです。

一瞬で7人もの敵を倒したという逸話もあります。

軍神と呼ばれる上杉謙信からも名刀「備前三郎国宗」を贈られています。

まとめ

佐竹義重は豊臣秀吉の威光もあり、悲願であった常陸統一を成し遂げました。

関ヶ原の戦いの後出羽国に赴いた六郷城で、反対勢力に目を光らせるなど晩年を過ごしています。

しかし、鷹狩の際に落馬して66歳で亡くなりました。

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