「大内義興」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「大内義興」の死に際とは?日本の人物

室町時代後期の武将「大内義興」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「大内義興」とは?簡単に説明

「大内義興(おおうちよしおき,1477年~1529年)」とは名門大内氏の生まれで、最盛期に「周防・長門・豊前・筑前・石見・山城・安芸」の七国も支配していた西日本最大の戦国大名です。

足利義澄・細川政元に敗れた、室町幕府10代将軍・足利義稙(あしかがよしたね)を大内義興は庇護、永正5年 (1508年) 6月に義稙を将軍に復位させています。

その功績で「管領代」として幕政を司りました。

山口に戻ってからは出雲の尼子氏との戦いを繰り返しますが、安芸の陣中で病気を発症して山口で亡くなりました。



「大内義興」の晩年

「大内義興」は遣明船を送って対明貿易で莫大な利益を得て、京都の街・文化を模範とする「大内文化」を開花させました。

大内義興は自らを頼ってきた10代将軍・足利義稙を助けて、11代将軍・足利義澄や管領・細川澄元を軍事力で圧倒します。

永正5年 (1508年) 6月、義稙を再び将軍に戻して、管領代として幕政を掌握しました。

しかし、本国で尼子氏・武田氏との軍事的緊張が高まってきたため、永正15年(1518年)に領国の周防山口に帰国しました。

晩年の大内義興は大永元(1521)年から、山陰の安芸から勢力を伸ばしてきていた尼子経久らとの戦いに日々を費やします。

大永3(1523)年には、尼子氏から大内氏の拠点だった鏡山城を落とされて劣勢になります。

しかし、翌年に厳島の桜尾城を奪い、大永5(1525)年に安芸の毛利氏が尼子氏を裏切って味方になってくれたことで戦況が有利になりました。

しかし、享禄元(1528)年7月に、安芸の陣中で大内義興は体調を大きく崩して帰国を余儀なくされました。



「大内義興」の死に様

晩年の「大内義興」は、山陰地方から大内氏の領内に侵攻してきた尼子経久・武田氏・友田氏の連合軍と戦い続けました。

毛利氏が尼子氏に寝返って鏡山城を奪われ、石見地方の戦いでは連敗を喫して苦戦しましたが、大永5年(1525年)に毛利元就が再び味方になったことで盛り返しました。

大永7年(1527年)、家臣の陶興房(すえおきふさ)が「細沢山の戦い」で尼子経久を打破して戦況が有利になってきました。

しかし、享禄元年(1528年)7月、安芸門山城攻めのために立てていた陣中で何らかの病気を発症して倒れてしまいます。

本国の山口に何とか帰り着いたものの、病状は回復せず、12月20日に大内義興は病死しました。

「大内義興」の死に様の信憑性

「大内義興」が出雲の尼子経久らと戦っている途中の戦陣において、病気を発症して本国の周防山口に帰った後に死去したというのは史実であり信憑性があります。

義興は門山城攻めの戦陣で、享禄元年(1528年)7月に脳血管障害など何らかの病気を発症して倒れ、12月20日に山口で逝去しました。

大内義興の墓は今も凌雲寺跡(遺跡)の敷地内に保存されていて、義興の法名は「凌雲寺傑叟義秀」とされています。

まとめ

「大内義興」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「大内義興」は、尼子氏との戦の途中で発病して、山口に帰国したものの病死しました。

「大内義興」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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