「上杉謙信」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「上杉謙信」の死に際とは?日本の人物

上杉謙信は、数ある戦国武将の中でも軍神と恐れられるほど戦上手の武将でした。

その晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。

上杉謙信とは?

上杉謙信は、越後の長尾為景の四男として誕生します。

長尾家は越後の守護・上杉家に仕える家柄でした。

兄から奪う形で家督を継ぎ、内乱が続く越後の国の統一に尽力します。

室町幕府の将軍である足利義輝の後ろ盾もあり、越後国主としての地位を確立しました。

周辺の諸大名とは領土を巡って争いを繰り返しており、特に武田信玄と熾烈な争いを繰り広げた川中島の合戦は有名です。

宿敵として知られる武田信玄以外にも、北条氏康や織田信長などとも戦っています。

上杉謙信の晩年

上杉謙信の晩年の戦いで知られるのは、織田信長の軍勢と戦った手取川の戦いです。

天正4年に謙信は、能登の覇権を手にするため七尾城を攻略しようとしていました。

七尾城は難攻不落の城と言われ、攻め落とすのは至難の業でした。

そこで謙信は次々と能登にある他の城を攻略し、七尾城を孤立する作戦に出たのです。

そして長い籠城作戦に一年という月日をかけて対抗し、七尾城を攻略しました。

その時、七尾城内では上杉謙信につこうという一派と織田信長を頼ろうという一派に分かれ対立します。

織田側につこうという一派が、信長に援軍を要請していました。

信長はその要請に応え、3万もの大軍を派遣します。

ところが軍勢が到着する前に七尾城は謙信によって落城しており、織田の軍勢が近づいてくることを知った謙信はすぐに七尾城を出撃します。

石川郡にある松任城まであっという間に進出し、織田軍を迎え撃つ形となりました。

これが手取川の戦いで、織田の軍勢は手取川を渡ったところで七尾城の陥落を知ることとなります。

形勢不利に陥った織田軍は退却しようとしますが、謙信は追撃して勝利をおさめます。

上杉謙信の最期

手取川の戦いを終えて春日山城に帰還した上杉謙信でしたが、数か月後には次の遠征に出ることを決めていました。

しかし、その準備をしている最中、厠で倒れてしまいます。

そのまま昏睡状態に陥り、数日後に亡くなりました。

享年49です。

上杉謙信の死因は、倒れたまま意識がなかったことから脳溢血によるものと考えられています。

上杉謙信をめぐる逸話

上杉謙信は生涯で何度も改名しており、最初は長尾景虎と名乗っていました。

山内上杉家の家督を譲られたことにより、上杉政虎という名前に改めています。

それから室町幕府の将軍だった足利義輝から一字を与えられて、上杉輝虎と名乗るようになりました。

そして出家して謙信と号したのです。

まとめ

上杉謙信は、戦国時代きっての戦上手として知られる武将です。

合戦では、武田信玄や織田信長といった名だたる武将にも全く引けを取りませんでした。

その晩年も戦に明け暮れ、次の遠征の準備をしている最中に倒れて亡くなります。

脳溢血だったといわれており、倒れてから数日後には亡くなっています。

享年49でした。

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