「東洋のルソー」とも呼ばれる「中江兆民」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「中江兆民」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「中江兆民(なかえ ちょうみん)」とは?簡単に説明
「中江兆民」は思想家、政治家であり、フランスの哲学者「ジャン=ジャック・ルソー」の著作「社会契約論」を翻訳したことから「東洋のルソー」とも称されています。
本名は「篤介(とくすけ)」であり、「兆民」は「億兆の民」を意味する号です。
足軽の家に生まれるも、勉学に励み、特に外国語の習得に努めました。
やがて、その語学力を評価され、岩倉使節団の一員としてフランスへ渡航します。
帰国後は学舎設立や校長へ就任するも、湧き立つ自由民権運動の影響を受け、政治活動へ傾倒していきました。
「中江兆民」の晩年と最期
明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙に大阪4区から出馬し、見事1位で当選しました。
同年、「中江兆民」は「立憲自由党」を結成するも、政府予算案が自由党土佐派の裏切りで成立したことに怒り、明治24年(1891年)2月に議員を辞職してしまいます。
同年7月には北海道の小樽へと渡り、地元初の新聞「北門新報」を創刊しました。
翌年、札幌進出を果たした「北門新聞」を退社し、一旦高知へ向かった後、明治26年(1893年)に札幌にて「高知屋」を開業します。
その後も、材木業「北海道山林組」の設立や、鉄道事業の発起人となるなど、手広く事業活動に取り組みますが、いずれも失敗に終わっているようです。
明治31年(1898年)の12月に政界復帰を目指して「国民党」を結成し、国民同盟会の会議にも出席していますが、明治34年(1901年)の12月13日に大阪にて病没します。
享年54歳でした。
「中江兆民」の死に様の信憑性
死因は喉頭ガンとされています。
第1回衆院選にまつわるエピソード
「中江兆民」が第1回衆院選で出馬した大阪4区は被差別部落でした。
「中江兆民」は出馬に際し、本籍をこの地に移し、「自分は社会の最下層のさらに下層にいる種族にして、新平民にして、かつて穢多と呼び倣わしたる人物なり」と自称しました。
「穢多」とはかつて差別を受けていた身分であり、「新平民」とは「四民平等」により被差別民と同等になることを嫌がった元平民たちによる元被差別民へ向けた蔑称のことです。
これにより、「中江兆民」は被差別部落の人々の支持を獲得し、1位当選を果たすことになりました。
まとめ
「中江兆民」は「東洋のルソー」とも称される思想家、政治家です。
足軽の家に生まれながら、勉学に重きを置き、修得した語学力を活かして岩倉使節団に採用されています。
帰国後は自由民権運動の高まりを受け、政治活動を行うようになりました。
第1回衆院選では被差別部落民の支持を獲得し、1位で当選しますが、翌年に議員を辞職します。
その後、様々な事業を経て、政界復帰を志しますが、明治34年(1901年)12月13日、喉頭ガンにより享年54歳で病没しました。