「徳川家治」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「徳川家治」の死に際とは?日本の人物

聡明なれど政に興味索然?「徳川家治」の晩年とは?

この記事では徳川家茂の死に際、そして晩年について解説していきます。

「徳川家治」とは?簡単に説明

父・徳川家重、祖父・徳川吉宗をもつ10代目将軍徳川家治は幼き頃から聡明であったと言われています。

家重は脳性麻痺だったと言われ、幼き頃から酒と伽に溺れる日々、それゆえに吉宗は聡明な家治を寵愛します。

その結果家治は利発に育ちましたが、吉宗にとって誤算が生まれました。

それは家治が政務に興味がなかったことでした。

将棋に没頭、趣味は多才なれど政務は家臣任せだったと言います。

優秀な部下が采配を奮うのは古今東西あることですが、家治は“田沼意次”に政務を任せるのでした。



「徳川家治」の晩年

1760年に将軍になった当初は政務に励んでいた家治でしたが、老中首座の松平武元が亡くなると田沼意次に任せきり、趣味に没頭するようになります。

武元は吉宗以降三代に使えており、家治には小煩い爺の存在だったのでしょう。

それに加え同時期に家治を失意のドン底に落とす出来事がありました。

それは息子である徳川家基の急死でした。

幼い頃から鋭気を見せていた家基は文武両道に優れ、政務にも積極的。

意次の施策を批判するなど次代の将軍に相応しい才覚と気概を発揮し始めていました。

しかし鷹狩りの帰り、急に体調を崩し3日後に若い命を散らしてしまうのでした。

戦国時代の長宗我部氏でも似たような話はありますが、家治は食事も取れなくなるほどの絶望に襲われてしまいます。

悪いことは続き天明の大飢饉、浅間山の天明大噴火などが起き、社会不安が全国に拡大しますが、これといった積極策もうてずに家治は亡くなってしまうのでした。



「徳川家治」の死に様

家治は歴代将軍も多くかかった脚気によって命を落としています。

脚気による特徴の1つ水腫の症状が出て、以降1ヶ月で休息に体調を悪化させました 家光や家茂が発症した足の浮腫とは違い、いわゆる腹水や胸水として症状が出ており、心嚢水腫の可能性も高かったでしょう。

発症してほぼ1ヶ月後の9月17日に危篤状態に陥り2日後に亡くなっています。

「徳川家治」の死に様の信憑性

脚気は都市部で一般的な病気でしたが、まだ治療方法が解明されていないため、どうすることもできませんでした。

しかし家治の死の直後には毒殺説が広く流れ、田沼意次が仕掛けたものだと流布しています。

家治が亡くなる10日前に町医者日向陶庵と元町医者の若林敬順を登城させ、与えた薬を飲んだ直後に重体となってしまったため毒を盛ったのではないか? 二人を推挙したのは意次である、家基が急死した時にも、意次が怪しかったという論理でした。

真偽はいずれにせよ家治の死は反田沼派に利用されることになり、意次も失脚することになります。

まとめ

吉宗の期待を集め、聡明と言われていた家治ですが、祖父の期待通りにはなりませんでした。

聡明な部分は多分に趣味に活かされることとなり、将棋、絵画、鷹狩りなど多彩ぶりを発揮します。

その一方で為政者としては意次とセットで語られる事が多く、無知の罪に類する辛辣な評価がされてきました。

家治を諌めることのできた“西の丸の爺”松平武元と“嫡男”家基を同年に喪ったことも大きかったように思えます。

意次が悪目立ちしたことで、家治は存在が薄くなってしまったのは否めないところでしょう。

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