「渋沢喜作」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「渋沢喜作」の死に際とは?日本の人物

渋沢喜作は明治時代の実業家で、明治維新後には渋沢商店を創設しました。

渋沢喜作の晩年と最期について紹介します。

渋沢喜作とは?

渋沢喜作は、武蔵国の豪農だった渋沢文左衛門の長男として生まれます。

NHKの大河ドラマ「青天を衝け」のモデルになった渋沢栄一の従兄でもあります。

渋沢栄一らと共に尊王攘夷運動に傾倒しますが、栄一と共に後の将軍となる一橋慶喜に召し抱えられました。

慶喜が将軍になると幕臣となり、戊辰戦争の際には彰義隊を組織して戦います。

明治維新後には大蔵省に努めた後、38歳の時に渋沢商店を開業します。

米や生糸の流通を手掛けました。

深川正米市場を創設し、理事長にもなっています。

渋沢喜作の晩年

渋沢商店を開いた喜作は、廻米問屋と生糸売り込み問屋を営んでいました。

渋沢商店を開くことを勧めたのは、渋沢栄一だといいます。

明治時代には今までの年貢制度がなくなり政府は米の扱いに苦慮していたため、その流通を担う廻米問屋は重要な商売になると考えたからです。

生糸も当時は日本の輸出品の中でも主力商品でした。

喜作は大蔵省時代、ヨーロッパに養蚕製糸事業の調査に出かけたこともあり生糸の輸出に精通しています。

しかし、米相場の急落で大きな損失を被り、栄一から援助を受けることになりました。

家督を喜作の長男である作太郎に譲ることを勧められ、これを受け入れます。

ただし、隠居した後も喜作は他の廻米問屋と深川廻米問屋組合を作り深川正米市場を創設するなど、商売に携わっていました。

ところが生糸の輸出を巡って再び損失を被り、またも栄一の援助を受けることになります。

それにより米と生糸の取引からは身を引くこととなり、渋沢商店の経営からは完全に離れました。

渋沢喜作の最期

渋沢商店の経営からは手を引いた喜作でしたが、その後も渋沢栄一と共に様々な企業の設立に関与しています。

明治26年には、東京商品取引所の理事長に就任しました。

完全に引退したのは明治36年です。

そして白金台にある住まいで穏やかな余生を過ごします。

亡くなったのは大正元年で、享年75でした。

当時の寿命を考えると長生きしたといえます。

渋沢喜作をめぐる逸話

渋沢喜作が余生を送った邸宅は、現在は結婚式場として知られる八芳園になっています。

1万2千坪もの敷地があり、美しい庭園があることで知られます。

八芳園の名前には、四方八方どこから見ても美しい庭園という意味があります。

元々は旗本の大久保忠教の屋敷でしたが、島津家の下屋敷となり明治時代に渋沢喜作の手に渡ったのです。

その後持ち主が変わり、日本庭園を生かした料亭として利用されるようになりました。

まとめ

渋沢喜作は渋沢栄一の従兄で、栄一と共に様々な事業に携わった明治時代を代表する実業家です。

渋沢商店を開き、米と生糸の取引を主に行いました。

引退した後は白金台の住まいで穏やかに余生を過ごし、大正元年に75歳で亡くなっています。

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