女性説も囁かれている第9代将軍「徳川家重」。
幼少より言語障害に悩まされながらも、どのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「徳川家重」の晩年や最期についてわかりやすく解説していきます。
「徳川家重(とくがわ いえしげ)」とは?簡単に説明
「徳川家重」は江戸幕府第9代将軍となった人物であり、第8代将軍「徳川吉宗」の嫡男でもあります。
生まれつき虚弱であり、言語障害も持っていたため、周囲とのコミュニケーションに難があったようです。
この言語障害については、脳性麻痺が原因ではないかとも推察されています。
それも影響してか、幼少のころより大奥に籠り、青年となってからも酒色に耽り続けました。
そのような有り様だったこともあり、弟との間で職後継争いが起こります。
父「吉宗」は悩んだ末に、実権を掌握し続けながらも「徳川家重」を将軍に据えました。
「徳川家重」の晩年と最期
吉宗の死後は、幕府の財務監査制度を徹底したほか、予算制度を導入します。
また、「宝暦の勝手造り令」と呼ばれる酒造に関する規制緩和策も実施しました。
その傍ら、宝暦4年(1754年)には日本各地でトラブルが続発します。
東北地方では「宝暦の飢饉」、美濃国(現在の岐阜県)では「郡上一揆」、薩摩藩では「宝暦治水事件」が起こりました。
さらに、宝暦8年(1758年)には、日本史上初の幕府による尊王思想(将軍ではなく、天皇を国家権力の中心に据えるべきとする思想)論者を弾圧した「宝暦事件」が起こります。
宝暦10年(1760年)、将軍職を嫡男「家治」に譲り、自身は大御所となりますが、翌宝暦11年(1761年)6月12日に50年の生涯に幕を下ろしました。
「徳川家重」の死に様の信憑性
「徳川家重」は頻尿であり、裏では「小便公方」と揶揄されていたとも云われています。
そのことから、排尿障害による尿毒症や尿路感染が死因ではないかとする説もあるようです。
「徳川家重」女性説
頻尿であったことも含め、以下を根拠として「徳川家重」は女性だったとする説があります(頻尿は女性に多い疾患とされている)。
・囲い式のトイレを作らせた
・言語障害もあり、人前で話すことが少なかったため、声を聞いた家臣がほとんどいなかった(女性であることを隠すためではないかとも)
・歯形や骨盤の形状に女性的な特徴があったとされ、遺体も他の将軍があぐらを組む姿勢で埋葬されていたのに対し、「徳川家重」のみ正座で埋葬されていたとされる
まとめ
「徳川家重」は江戸幕府9代将軍となった人物です。
幼い頃より言語障害に悩まされ、一時は堕落した生活に浸っていましたが、父「吉宗」により将軍に据えられました。
父の死後は、優秀な人物を重用し、サポートを受けつつ政治的手腕を発揮していきます。
将軍職を嫡男に譲った翌年、宝暦11年(1761年)の6月12日、享年50歳で死去しました。
排尿障害も持っていたとされ、死因は尿毒症や尿路感染とする説が挙げられています。