「立花宗茂」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「立花宗茂」の死に際とは?日本の人物

戦国武将の「立花宗茂」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

「立花宗茂」のおおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「立花宗茂」とは?簡単に説明

「立花宗茂」は豊後大友氏に仕えた立花道雪の養嗣子で、「九州征伐・小田原征伐・朝鮮出兵」に協力して豊臣秀吉に筑後柳河の大名に取り立てられた武将です。

秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と称賛されるほど武勇に優れた武将でしたが、「関ヶ原の戦い」で西軍について改易されました。

しかし武名の高い宗茂は徳川家康からも厚遇され、 元和6年(1620年)に幕府から改易された旧領・筑後柳川藩10万9200石を再び与えられています。

西軍に味方して旧領回復できたのは、立花宗茂だけです。



「立花宗茂」の晩年

「立花宗茂」「大阪冬の陣・夏の陣(1614年~1615年)」で豊臣秀頼につかず徳川方に味方したこともあり、元和6年(1620年)に旧領の柳川藩を回復しました。

晩年は歩行に支障を来す体調不良のために柳川藩に帰ることはなくなり、そのほとんどを江戸の藩邸で過ごし、各地の大名との連絡役をつとめました。

伊達政宗らと一緒に、三代将軍・徳川家光に戦国時代の逸話を語る「相伴衆」にもなっていて、秀忠・家光からも気に入られました。

晩年の宗茂は秀忠・家光が開催する茶会や能・狂言に参加したり、京都上洛・大坂行きなどにも同行しています。

1638年に家督を養子・忠茂に譲って出家、1642年に天命をまっとうする形でこの世を去りました。



「立花宗茂」の死に様

「立花宗茂」は豊臣秀吉から与えられた旧領の筑後柳川を元和6年(1620年)に取り戻します。

1638年の「島原の乱」の鎮圧に参謀役で協力して養子の忠茂に家督を譲りますが、その頃から歩行に困難が生じたようで、本国の柳川(筑後)・飛騨(柳川の後に飛騨守に転封)に戻ることがなくなっていきました。

徳川将軍の家康・秀忠・家光に相次いで厚遇された宗茂は、幕府と各地の諸大名の間を取り次ぐような役目を果たしながら、江戸の藩邸で晩年を過ごしました。

寛永19年(1642年)に、江戸の柳原にあった藩邸で老衰あるいは病気で死去しました。

享年76歳。

「立花宗茂」の死に様の信憑性

「立花宗茂」は寛永19年(1642年)、所領を与えられた本国の筑後・飛騨に戻ることなく、江戸柳原に建てられていた藩邸で亡くなったことは史実としての信憑性があります。

「戦国時代・織豊政権・江戸初期」の長い期間を通じて激しい戦いに明け暮れた九州地方の武将・立花宗茂でしたが、享年76歳で当時としてはかなりの高齢で亡くなっています。

何が原因で死んだのか直接の死因は定かではありませんが、亡くなる数年前に家督を養子に譲って準備していることもあり、老衰・病気による死去だったと考えることができます。

まとめ

「立花宗茂」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか? 「立花宗茂」は柳川藩初代藩主として旧領を取り戻しましたが、晩年は江戸で過ごすことが多く、寛永19年(1642年)に江戸の柳原にあった藩邸で死去しました。

「立花宗茂」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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