「酒井忠次」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「酒井忠次」の死に際とは?日本の人物

「徳川家康」に仕え、「徳川四天王」「徳川十六神将」の筆頭ともされる戦国武将「酒井忠次」

ある事件がきっかけで「徳川家康」との不仲説も囁かれていますが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「酒井忠次」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「酒井忠次(さかい ただつぐ)」とは?簡単に説明

「酒井忠次」とは、「徳川四天王」「徳川十六神将」の筆頭とされる戦国武将です。

「徳川家康」が幼い頃より仕え、主だった戦にはその都度参陣し、敵将を打ち破って戦功を挙げています。

しかし、天正7年(1579年)に家康の嫡男「松平信康(まつだいら のぶやす)」「織田信長」により切腹させられる事件が起きます(諸説あり)。

「酒井忠次」は弁明のため「織田信長」の元へ遣わされますが、切腹を防ぐことができませんでした。

謎の多いこの事件ですが、一説ではこれを契機に「徳川家康」との関係が悪化したと云われています。



「酒井忠次」の晩年と最期

天正12年(1584年)、「羽柴秀吉」「徳川家康」の間で起きた「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」に参加し、「羽黒の戦い」にて「鬼武蔵」とも称される敵将「森長可(もり ながよし)」を退けました。

豊臣政権下では、天正14年(1586年)に家中で最高位とされる「従四位下・左衛門督(じゅしいげ・さえもんのかみ)」に叙任されます。

天正16年(1588年)に家督を嫡男「酒井家次(さかい いえつぐ)」に譲り、自身は出家後、「一智(いっち)」と号して隠居に入りました。

隠居の理由は加齢のほか、患った眼病が原因でほとんど目が見えなかったためとも云われています。

そして慶長元年(1596年)の10月28日に自邸である京都桜井屋敷にて生涯を終えます。

享年70歳でした。



「酒井忠次」の死に様の信憑性

死因については不明で、定かではありません。

徳川家康との不仲説

嫡男「酒井家次」が家督を継承した際に、「徳川家康」より3万石の領地が与えられます。

ところが、「本多忠勝(ほんた ただかつ)」をはじめ、他の「徳川四天王」には10万石ほどの領地が与えられており、息子との石高の差に不満を抱いた「酒井忠次」は抗議しました。

対して、「徳川家康」「お前も我が子が可愛いか」と言い、家康の嫡男「松平信康」の切腹を防げなかったことへの責めを受けたとされています。

しかし、「切腹事件」については未だに謎の部分が多くあり、「徳川家康」本人の意思だったとする説も挙げられています。

また、石高の決定は「徳川家康」によるものではなく、「豊臣秀吉」の意思だったとする説もあるようです。

まとめ

「酒井忠次」は、「徳川四天王」「徳川十六神将」の筆頭とされる戦国武将です。

徳川家重臣として緒戦に参加し、敵将を打ち破って武功を挙げ続けました。

晩年は家督を嫡男に譲り、出家後に隠居します。

その後、自邸にて70年の生涯に幕を下ろしました。

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