豊臣政権下における「五奉行」のメンバーとして有名な「浅野長政」。
織田家、豊臣家、徳川家と英傑たちに仕えた末にどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「浅野長政」の生涯や晩年についてわかりやすく解説していきます。
「浅野長政(あさの ながまさ)」とは?簡単に説明
「浅野長政」とは、浅野家14代目当主の戦国大名・武将であり、常陸国真壁藩(現在の茨城県桜川市真壁町)の初代藩主です。
豊臣政権における「五奉行」として有名であり、かつ「五奉行」において最大の大名でした。
ちなみに「長政」は晩年に改名したものであり、生涯のほとんどを「長吉(ながよし)」と名乗っていました。
「浅野長政」は、「安井重継(やすい しげつぐ)」の子として生まれます。
叔父であり織田家臣の「浅野長勝(あさの ながかつ)」の婿養子として迎えられ、その後、「浅井家」の家督を相続します。
さらに、「浅野長政」の養女「寧々(ねね)」が「木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)」に嫁いだことにより、「織田信長」の命を受けて「羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)」の与力となります。
豊臣家臣、徳川家臣として仕える
「浅野長政」は「織田信長」の死後、豊臣家臣として「豊臣秀吉」に仕えます。
「豊臣秀吉」もまた姻戚関係の「浅野長政」を重用し、天正12年(1584年)に「京都奉行職」として取り立てます。
その後も、「九州征伐」や「関東征伐」、「奥州仕置」などに従軍して、「豊臣秀吉」の天下取りに大きく貢献しました。
その功績を「豊臣秀吉」に認められ、甲斐府中城主になった後、「豊臣秀吉」と東国大名の取次役に任命されました。
「五奉行」であった「浅野長政」、同じく豊臣政権下の「五大老」であった「徳川家康」とは良好な関係にありました。
しかし、「豊臣秀吉」の死後、「増田長盛」に計られ、「徳川家康」に対する暗殺の嫌疑をかけられてしまいます。
その結果、「浅野長政」は家督を嫡男の「浅野幸長(あさの よしなが)」に譲り、自身は武蔵国(現在の埼玉県)府中に隠居することになりました。
その後、慶長5年(1600年)に徳川方に対して「石田三成」が挙兵し「関ケ原の戦い」が起こると、「浅野長政」は徳川方の「東軍」に与します。
「関ケ原の戦い」は東軍が勝利を収め、「徳川家康」より功績を認められた「浅野長政」、及び「浅野家」は報酬を与えられます。
江戸幕府が開かれた後、「浅野長政」は「徳川家康」の近侍(きんじ)として仕えました。
「浅野長政」の晩年
その後、「徳川家康」より「隠居料」として常陸国真壁5万石を与えられ、慶長16年(1611年)に生涯を終えます。
享年65歳でした。
「浅野長政」の死に様の信憑性
慶長16年4月7日 、江戸にて没、下野国塩原ヘ湯治之処、彼湯ニテ二三日不例とあり死因については不明とされています。
まとめ
「浅野長政」とは、浅野家14代目当主の戦国大名・武将です。
織田家、豊臣家、徳川家と時勢の移り変わりとともに各主君に仕え、活躍しました。
晩年は「徳川家康」の近侍として仕えた後、隠居先の常陸国真壁の地にて生涯を終えます。
享年65歳でした。