「鳥居元忠」は徳川家康に父の代から仕えた重臣でした。
家康の天下統一を支えるため、わずかな兵士で城に籠城し、13日間もの間城を守り切り、家康の家臣として見事に散った武将です。
そんな「鳥居元忠」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。
「鳥居元忠」とは?簡単に説明
「鳥居元忠」は、現在の愛知県岡崎市近辺に当たる三河国に松平家家臣であった鳥居忠吉の三男として生まれます。
徳川家康の忠実な側近であった父を継ぎ徳川家に仕えます。
姉川の戦いや三方ケ原の戦いなど数々の戦場に参戦し家康からの信頼も厚かった武将です。
家康が上杉景勝の征伐するために行った海津征伐の際に、伏見城を任されわずか数千の兵と共に玉砕覚悟で城に籠城し、13日もの間に渡り城を死守し、討ち死にしました。
「鳥居元忠」の死に様
慶長5年、上杉景勝を征伐しようと考えていた家康は、諸将を連れて兵を出します。
「鳥居元忠」は、その際に重要な拠点であった伏見城を任されます。
家康に城内に残せる兵が少ない事を酒の席で述べられると、元忠は「天下を取るためには一人でも多くの家臣を連れて行ってください。
もし攻め入られたら城もろとも玉砕する覚悟だから、多くの兵を残す事は無駄ですので一人でも多くお連れ下さい」と言い放ち、家康はえらく喜んだそうです。
家康の留守中に、その隙を突いて石田三成らが挙兵、4万もの兵で攻め入りました。
この時に伏見城にいた兵力はわずか2000程度でした。
城内に立てこもった元忠は、最初から討ち死を覚悟し三成側が降伏を勧める使者を出しましたがそれを殺害して送り返し、13日間もの間戦い続け時間を稼ぎました。
三成側は関係屋敷に火を放ち、四六時中攻めましたが、防御に優れていた伏見城は落城しませんでした。
しかし8月1日ついに元忠は、鉄砲頭であった鈴木重朝に打ち取られ、伏見城は炎上、落城したのです。
その時元忠は62歳でした。
家康は忠義を最後まで尽くした元忠の死を悲しんだとされています。
「鳥居元忠」の小ネタ等
伏見城の戦いの際に、13日もの間籠城し時間を稼いだ元忠でしたが、この伏見城の戦いはこの後行われる関ケ原の戦いの前哨戦だったと言われています。
石田三成軍はこの伏見城の攻略に時間をかけすぎてしまったため、大きく出遅れてしまったと言う説が存在します。
また籠城の際に自害した家臣や兵の血がついた畳は「血天井」と呼ばれ、複数の寺の天井に供養のため張替られています。
しかし、実際にそのシミが血であったかどうか、伏見城の畳であったかなどの証拠は存在しないようです。
まとめ
天下分け目の戦いの「関ケ原の戦い」の前哨戦で行われた「伏見城の戦い」において、忠義を尽くし少数の兵で13日間もの間4万の兵から城を守り続けた「鳥居元忠」。
その最後は家康が天下を統一すると信じ、玉砕覚悟で見事に散ったまさに戦国時代の武将を象徴するような男だったのでした。