「浅野幸長」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「浅野幸長」の死に際とは?日本の人物

浅野幸長は安土桃山時代の武将で、豊臣秀吉・秀頼に仕え、和歌山藩主を勤めました。

武勇に優れた武将でしたが、38歳の若さで病死します。

しかしその死因には諸説あり、徳川方に暗殺されたのでは?という疑惑もあります。

「浅野幸長」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈します。

「浅野幸長」とは?簡単に説明

「浅野幸長」(あさのよしなが)とは安土桃山時代から江戸時代にかけて、活躍した武将です。

浅野長政の長子で、1576年(天正4)に生まれました。

母親は長生院という女性で、別名を“やや”(良々)もしくはお祢々といい、豊臣秀吉の正室、“ねね”(寧々)の義理の姉妹にあたります。

(ねねは浅野家の養女)浅野幸長は幼少より父長政と共に、豊臣秀吉に仕えました。

1590年(天正18)秀吉が北条氏の小田原を攻めた戦、「小田原攻め」に15歳で参戦します。

初陣ながら本田忠勝らと共に岩槻城に攻め上りました。

秀吉は幸長の軍功を褒め称え、刀と脇差しを送っています。

その後、秀吉の征韓戦争、文禄の役と慶長の役に参戦しました。

秀吉の死亡により日本は朝鮮半島から撤退しますが、帰国後の幸長らを待っていたものは、残された武将たちの勢力争いでした。

幸長は奉行衆筆頭の石田三成と激しく対立し、細川忠興らと共に、五大老筆頭徳川家康の配下となります。

1,600年(慶長5)の「関ヶ原の戦い」では徳川方の東軍に味方しました。

戦後は軍での武功を認められて、紀伊国37万石を与えられ、初代和歌山城主となりました。



「浅野幸長」の晩年

浅野幸長は和歌山城主となり、従四位下・紀伊守に任じられます。

1,609年(慶長14)娘、春姫(高原院)を家康の9男で尾張藩主、徳川義直と婚約させ、徳川家との縁組を計りました。

春姫の嫁入りは白銀2000両が持参金として家康に支払われるなど、過去に類を見ないほど壮麗で豪華な婚儀でした。

春姫の嫁入りは現代も続く名古屋の豪華な結婚式のルーツだと言われています。

1,611年(慶長16)には加藤清正と共に、二条城で豊臣秀頼と徳川家康の会談を実現させます。

幸長は秀頼と家康の間を取り持ち、警護を担当しました。

それからわずか2年後、浅野幸長は病で亡くなりました。

さあ、これからが徳川の世、という時期の病死であり、享年38歳でした。



「浅野幸長」の死に様

浅野幸長は晩年疱瘡を患い、養生の甲斐なく亡くなったと記録されています。

死因は『当代記』によると「偏ニ好色故之、虚ノ病ト云々」と記され、梅毒を指しています。

また幸長は遊女を買い取って相手をさせていた、とも伝えられるので、表向きの死因は梅毒、性病となっています。

「浅野幸長」の死因、別説

浅野長政は徳川家康に忠実に仕えた功臣ですが、家康からはある種の不信感を持たれていたようです。

父、浅野長政は家康暗殺の疑いをかけられ、謹慎を命じられた経緯がありました。

浅野家は元々豊臣秀吉の臣下であり、その忠義はよく知られていました。

徳川の世を認めつつも、秀頼ら豊臣方の繁栄を願っていたとも伝えられます。

こうした幸長の姿勢が家康の意向に添わず、暗殺された、との説があります。

まとめ

「浅野幸長」は輝かしい豊臣時代から盤石な徳川政権へと、鮮やかに転身を遂げた武将でした。

家康に忠義を尽くす影でかつての主君への恩も忘れてはいませんでした。

記録上その死を貶めている点から見ても、暗殺説は否定できない死因となっています。

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